起点の田辺大橋から1里を示す石柱 京街道の一里塚立て直し 【舞鶴】
投稿日時:2002年02月19日(火)
江戸時代に田辺藩から京までの主要道路だった京街道の一里塚が、旧京街道と呼ばれる舞鶴市・京田の道のそばで見つかり、地元の人たちがこのほど立て直した=写真。起点の田辺大橋から1里を示す石柱。これまで何度か探されていたが、竹やぶに隠れて倒れていたため、見つけることができなかった。街道の歴史を伝える貴重な道しるべとして、現在、作成中の中筋地区の歴史をまとめた郷土誌でも、紹介することにしている。
京街道は田辺大橋を起点とし、藩主が参勤交代にも使った。いまも京田に立つ道標「右 まつのを 若狭 左 御城下 ミやづ」から、新旧2つの街道に分かれ、真倉で合流していた。旧京街道は真倉川に架かる秋葉橋を渡り、山に沿ってできた道で、享保12年(1727)の「田辺城之絵図」にも記され、古い街道の面影が残っている。新しい京街道は真倉川右岸に沿った堤防道。
京街道には1里(約4キロ)ごとに距離を記した石柱の一里塚が立てられた。弘化3年(1846)に郡奉行の役人が田辺藩の一里塚の位置を記した中で、「京田山端ニ有田辺大橋ヨリ壱里」とあることから、地元の人らが旧京街道で何度か調べたが分からなかった。
見つかったのは、旧京街道に立つ法華塔の石柱から南へ約50メートルの場所。道からは見えない竹やぶに倒れていた。以前そこにあったのを知っていた七日市の川崎千代子さん(77)から、位置を聞いた近所の人が見つけ、地元の人たちで立て直した。石柱には「田邊大橋ヨリ壱里」と刻まれていた。川崎さんによると、昭和28年の13号台風で、山から流れてきた水で倒れたという。
田辺藩内の街道の道標を調べ、「まいづる田辺 道しるべ」の本を書いた安田重晴さん(80)=堀上=は「えっ、ありましたか。いくどか現地調査をしたのですが発見できなかったので、明治16年以後再三の大水害によって流失したのかと思っていました」と話していた。
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