被爆体験 若者に伝えたい 山田さん 広島の惨状記し本に 行方不明の父捜し歩くも見つからず【舞鶴】
投稿日時:2015年09月29日(火)
1945年、広島に投下された原爆で被爆した元日星高校教頭の山田達磨さん(79)=愛宕中町=が、その体験を一冊の本にまとめ、このほど自費出版した。父の貞之助さん(享年45)を原爆で亡くし、父の命日と自分の誕生日が重なる8月6日には毎年、広島の平和記念式典に出席している。被爆者が高齢化する中、「若い人たちに戦争のむごさ、むなしさを知ってほしい」と書き綴った。(青木信明)貞之助さんは綾部市出身。広島文理科大学(いまの広島大学)でガラスの実験器具を製作する技官を務めた。4人兄弟が広島で生まれた。1945年春ごろ、中心街にあった自宅に父だけが残り、一家は市内から北へ十数キロの安佐郡戸山村(いまの安佐南区)に縁故疎開した。山田さんは国民小学校4年生だった。父は週末になると、大学の畑で育てた野菜を土産に、自転車で職場から疎開先に通った。8月6日朝に職場に戻り原爆投下に遭った。山田さんは黒い雨を浴び髪の毛が抜け、数日後に母の志満さんと市内に入り父の行方を捜し歩き、入市被爆した。大学に行くと、父は大やけどを負って収容所に運ばれたと聞き、訪ねたが見つからなかった。戦後は母の故郷の福知山市に近い舞鶴市に引っ越した。当時、被爆者が差別されていたこともあり、母から被爆体験を口にしないよう言われた。市内の中学校や日星高で話したことがあるだけだった。「広島の惨状を思い出したくない。被爆者といっても大きな健康被害もなく、話す資格はない」という気持ちもあり、体験を語らなかったが、高齢の被爆者が伝えられなくなっている姿を見て、体験を残そうと決めた。タイトルは「ひろしま 9歳の時の父捜しと被爆体験」(158ページ)。焼け焦げた遺体や腐敗している臭いに何度も嘔吐し、瀕死の人の言葉にならない唸り声、市電の線路に多くの遺体が並べられた廃墟の様子を記した。比治山で6歳ごろの少女に出会い、おにぎりを手渡した。その子は遠くの焼け野原を見つめ、固く握りこぶしを作って肩を震わせ、「おかあちゃーん」と心の底から声を振り絞って叫び泣いていた姿が、いまも心に焼き付いている。1977年に姉が母の本籍地の福知山市役所に戸籍謄本を取りに行くと、そこに父が「1945年8月6日、広島市内で死亡」と書かれていた。父が亡くなる直前、本籍地などを聞き取った広島西警察署の署長が死亡報告書を送っていたことがわかり、戦後32年を経て父の死を確認したことも載せた。山田さんは「見てきたことをありのままに記し、子供にも読んでもらえるようにと漢字にルビを付けた。若い人たちに戦争や平和を考えてもらうきっかけになれば」と話している。父や多くの友達を亡くし、「いいかげんに生きられない」と戦後の人生を歩んできた。いまは中国内モンゴルでの植林活動、父に負けない野菜づくりに励んでいる。本は1,200円(税別)。アマゾンでネット通販しているほか、浜の写真店「キョーワドー」、引土の朝日新聞販売店で扱っている。【問い合わせ】電話090・1586・1367、山田さん。
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