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舞鶴空襲(上) 惨事の記憶 風化の危機 舞鶴海軍工廠を標的に1945年7月29・30日【舞鶴】

舞鶴空襲(上) 惨事の記憶 風化の危機 舞鶴海軍工廠を標的に1945年7月29・30日【舞鶴】

投稿日時:2010年07月23日(金)

鎮魂碑の銘板に刻まれた舞鶴空襲の犠牲者名(共楽公園)

 戦後65年目の夏を迎えた。海軍鎮守府が置かれた舞鶴も戦争の歴史と深く関わる。引き揚げと浮島丸事件を伝える活動は熱心に取り組まれるようになった。しかし、多数の犠牲者を出しながら風化の危機にさらされつつある記憶がある。1945年7月29、30日の舞鶴空襲だ。舞鶴海軍工廠で働いていた工員や学徒動員の生徒らが亡くなり、後に米軍の原爆投下の訓練だったことも判明した。舞鶴空襲を追った。昨年の7月29日、工廠近くの共楽公園山頂に立つ鎮魂碑の前に、京都市から来た橋本時代(ときよ)さん(81)がいた。空襲で友人7人を亡くした。「また今年も来たよ」と旧友に向け静かに語りかけた。1977(昭和52)年の第1回慰霊祭から毎年この日に欠かさず訪れる。爆風で吹き飛ぶガラス片で両目を失明し、左耳がほぼ聞こえない大けがを負って戦後生きてきた。29日は日曜日だったが1万人以上が工廠で働いていた。多くの勤労学徒も動員されており、京都市立洛北実務女学校の生徒だった橋本さんもその1人。午前8時半ごろ、第1造兵部水雷工場で人間魚雷の部品を磨く作業中、工場前の山に1発の爆弾が落ち、一瞬の内に目の前が血の色に染まり気を失った。コールタールで全身真っ黒になり、遺体置き場に並べられたが足が動いたのに気がついた人によって救助された。この時の惨状については、同女学校の元生徒でつくる洛友会が出版した体験記『失われた青春』に詳しく綴られる。「私たちはともかく防空壕へと走りました。ふと足元を見ると、死体の上に乗っていました。あたりには爆風で顔をえぐられた人、全裸の人たちが横たわっていました」30日は米海軍の戦闘機延べ230機が、海軍工廠など舞鶴軍港を中心に爆撃や機銃を繰り返した。第3ドックの事務所で働いていた舞鶴第2高等女学校生徒だった福嶋綾子さん(80)=倉梯町=は、出勤したものの空襲のため工場内の防空壕に避難し職場には近づくことができなかった。「白い病院船以外はほとんどの船がマストを海面から出して沈み、真っ黒になったけが人が担架で運ばれていきました」。当時の光景はいまも生々しく蘇る。29日は工員や生徒ら97人が死亡、100数十人が重軽傷を負ったとされる。しかし、鎮魂の碑には89人の名前が刻まれる。30日は死者83人、負傷者247人と『舞鶴市史』などに記される一方、死者は兵士5人、工員3人など計12人との記録もある。数字の食い違いについて、市史は29日の死者数が30日に混同されたのではと指摘する。軍事機密とされた工廠内での空襲だったため、詳しい記録が残されておらず、正確な被害の全貌はいまだにわかっていないが、京都府内の空襲で最大の惨事には違いない。

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