舞鶴空襲学徒犠牲者慰霊祭
《惨状の記憶》語り継ぐことが平和につながる
投稿日時:2021年08月10日(火)
余部下の共楽公園にある学徒慰霊碑前で7月29日、舞鶴空襲学徒犠牲者慰霊祭が営まれた。
2014年の慰霊碑建立から、毎年この日に慰霊祭を行ってきた。1945年のその日、若くして散った学徒の遺族や生き延びた元学徒、市民らから、「あの日のことを忘れません」「二度と戦争を繰り返してはならない」などという想いとともに集められた692万円の募金で建立された慰霊碑。建立から7年目となる今年は、昨年に続いてコロナ禍を受けて規模縮小した開催となった。
爆心地の旧舞鶴海軍工廠を見下ろすことが出来る慰霊碑の前で、主催者を代表してあいさつに立った慰霊碑管理委員会副委員長の小坂光孝さん(91)は、「舞鶴第二中(現在の東舞鶴高)に在籍時、学徒動員され人間魚雷に火薬を詰める作業に関わった体験を語り、「戦争を伝える人が少なくなっているが、人の命を大切にしない時代があったことを忘れてはならない」と力を込めた。
続いて、学友たちに向かって鎮魂の詞を読み上げた内藤昇さん(93)=綾部市=は、京都師範学校(現在の京都教育大)から学徒動員され、舞鶴海軍工廠での魚雷製造の作業中に空襲にあった。
上半身を魚雷に入れパイプ合わせをしていたという内藤さんは、「反射的に組んでいた魚雷の下にもぐり、クレーンもはずれる工場内で命拾いをした」と鎮魂の言葉を紡ぎ始めた。
その空襲で命を落とした学徒らは97人。翌日には艦載機からの攻撃で、さらに83人が死亡した。内藤さんは「76年前の今頃は、下に見える海軍工廠に投下された爆弾の土煙も消えて、引き込み線に停まっていた3両ほどの貨車沿いに爆風にたたきつけられ、頭を割られるなどして倒れていた人たちも運び去られ、地面の血にハエが群がっていました」と当時の情景を生々しく語り、「遺骨や遺品などが遺族に渡ることはなく、現場の鉄の切れ端か小石ぐらいしか手渡すことができなかった」と振り返った。
内藤さんは「それが戦争です」と語り、「時代が変わり、戦争の様相も変わりましたが、殺し合いには変わりはありません。君たちの命をかけた平和憲法を一人でも多くの人に語りかけ守り通すことを、お集まりくださいました方々と固く約束し、鎮魂の詞とします」と結んだ。
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