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米軍機による空撮写真は雁又地区へと続く 1945.7.30、機関実験部を詳細に写す【舞鶴】

米軍機による空撮写真は雁又地区へと続く 1945.7.30、機関実験部を詳細に写す【舞鶴】

投稿日時:2010年08月03日(火)

機関実験部を詳細に写す1
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機関実験部を詳細に写す4

米軍機による空撮写真は雁又地区へと続く。写真4はシイ崎の山を越え、中央に大きな2つの工場が並ぶ。舞鶴海軍工廠の機関実験部だ。1945年7月30日、吉田金雄さん(87)=浜=はここにいた。空襲警報を聞くと、雁又トンネルのすぐ脇にある防空壕にすぐさま入った。  38年に設置された機関実験部は、艦艇のボイラーの開発のため、品質の悪い重油でも効率的に燃焼させる研究・実験を業務としていた。舞鶴中学校を卒業した吉田さんは、海軍の船に乗り込んだ一時期を除き、40年から製図工として勤務した。父も工廠の水雷工場で働いていたがこの日は休みだった。  五条海岸から出る船で通勤し、実験部前の桟橋に着く。徴用された朝鮮人労働者も多く船に乗りごったがえしていた。写真5に写る実験部施設の内、「海岸そばに各型式燃焼缶実験場、その隣に機械工場と400トンの水タンクがあった」と説明する。写真下の空き地には資材などが置かれていた。  「昭和18年か19年ごろからは燃料の油も不足し、職員も陸軍に招集されて少なくなり、実験ができない休業状態だった」と振り返る。当時、工廠は魚雷などの生産で1万人以上が働いていたとみられるが、部署によっては状況が大きく違っていた。  写真6の大きな屋根の建物は造船部雁又工場。小型の船を主に造っていた。海に突き出す3つの口は船の進水台と思われる。  一度は防空壕に避難した吉田さんだが、少し外をのぞいてみた。上空に双発の爆撃機が3、4機、戦闘機数十機が見えたと思ったら、機銃掃射や爆撃、対空砲火のすさまじい音が響く。「小さなナスビの形をした爆弾が降ってきた。飛行機は白い煙を引きながら西へ飛び去った」と記憶をたどる。  静かになり外へ出て海上を見ると、海防艦が半分沈みかけていた。貨物船「寿丸」のブリッジから火と煙が上がり、平の沖合まで曳航され消火活動が行われた。帰路の船の上からは海岸に沿って5~10メートルの幅で白い帯が続く。爆撃の衝撃で白い腹を見せて浮かんでいた無数の魚たちだった。「30日の空襲のことは脳裏に焼きつき生涯忘れられません」と話す。  (写真はすべて米国立公文書館所蔵、福林徹さん提供)

写真=左から写真4。写真5。写真6。
写真右端=地図、撮影された位置

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