稲垣選手 涙の初タイトル−競輪G1 寛仁親王牌 制覇
投稿日時:2016年11月18日(金)
10月に行われた前橋競輪「G1寬仁親王牌・世界選手権記念トーナメント」で舞鶴市出身の稲垣裕之選手(39)が通算12度目の挑戦で悲願のG1初制覇を達成した。競輪は2001年度よりグレード制が採用されており、GP・G1・G2・G3・F1・F2の6段階にランク分けされている。中でもGP・GI・GII・GIIIはS級選手のみが出場でき、稲垣選手が制したG1は全競輪選手(約2300人)の成績上位108人だけが出場できる最高峰のレースとなる。稲垣選手は1977年、舞鶴市に生まれ、倉梯幼稚園~倉梯小~青葉中~西舞鶴高と進学。高校2年生の時に自転車に興味を持ち始めた彼は通学時や帰宅時にわざと遠回りするほど自転車にのめりこんでいったという。自然と競輪選手を目指すようになった彼は高校在籍時に競輪学校を受験したが失敗。父親が海上自衛官だったこともあり、卒業後に海上自衛隊(舞鶴教育隊に半年間在籍)へと入隊する。「海上自衛隊では心も体も鍛えてもらいました」そう話す稲垣選手だが、一度は封印した競輪選手への夢は捨てられなかった。当時受験対象年齢23歳までの規定があった競輪学校。通算3度目。期限が迫った22歳。彼は合格した。競輪学校に進学した稲垣選手は86期生として2001年8月富山でデビュー。競技では2004年アジア自転車競技選手権スプリント優勝。2007年ふるさとダービー松阪でG2初制覇するなど順風満帆な選手生活を送っていた彼に試練が訪れる。2010年8月の富山G3のレース中に落車で骨盤骨折。選手生命の危機に直面した。再起したものの選手になった時からの夢であるG1制覇は遠のいた。「何度もチャンスはあったが優勝できず、ケガまでしてしまった。自分はタイトルに縁がないのか」と半ば心が折れかけていた当時の心境を稲垣選手は語った。しかし彼は諦めなかった。身体の上手な使い方、心の保ち方、自分を強く持つこと、ケガをきっかけに彼は徹底的に自分を見つめ直した。そして迎えた12度目のG1。心身ともに充実した彼に迷いはなかった。終盤、番手から必死に追い込む稲垣選手。G1決勝で流し続けた涙に終止符を打ったのは仲間たちとの絆だった。固い結束を誇るライン(※1)に支えられ、彼は頂点に立った。「やっと取れたという気持ちでいっぱいです。ラインとして組んだ同地区の仲間のおかげです」と喜びを語り「これからはタイトルホルダーとしての期待もかかる中で、たとえ負けたとしても魅せられる選手を心掛けたい」と決意を語った。今年のG1優勝者9人で争われる競輪界最大のレースKEIRINグランプリ(12月30日、立川)への出場も決めた稲垣選手。舞鶴人が競輪界の頂点に立つ日も近い。
※1競輪の最大の見どころであり、勝負を大きく左右する“ライン”と呼ばれる選手同士の連携。
レース中の空気抵抗を軽減する隊列を組むなどレースを有利に進める連携を行う。ラインの組み方は、レースによって異なるが、基本的には同じ地区同士の選手でチームを組む傾向にある。
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