田辺ゆかりの名医再発見を 公文さん(元高校教諭) 新宮涼庭の紀行文、現代語訳し出版 蘭医学び、京に学問所開く 人並はずれた勉強家の足跡3冊を紹介【舞鶴】
投稿日時:2015年01月20日(火)
丹後の由良に生まれ、田辺藩とゆかりのある江戸末期の医師、新宮凉庭(りょうてい)(1787~1854)が残した紀行文など3編を、舞鶴市泉源寺の元高校教諭の公文公雄(きみお)さん(78)が現代語訳し自費出版した。長崎に旅して西洋医学を学び、京都に医学校と図書館を兼ねた学問所を開き、医科大学の礎ともなった。各藩の財政の支援や指南役も務めた。元国語教師で舞鶴地方史研究会会員の公文さんは、地元出身の偉人を紹介しようと、田辺藩家老だった野田笛浦(1799~1859)の漢詩を解釈した詩集を2013年に出版。それに続く第2弾として、新宮凉庭の研究に取り組んだ。新宮凉庭は漢方医の叔父のもとで育ち18歳で開業したが、西洋の医学書「西説内科撰要(せいせつないかせんよう)」を読みその先進性に驚き、オランダ医学を学ぶことを決意した。1810(文化7)年の24歳の時、田辺藩の支援も受け長崎に出発し、途中、各地で診察をして旅費にあて、多くの医師らを訪ねて交流し3年後に到着。出島のオランダ館に出入りを許され学んだ。帰郷後は京都で開業し名医として知られるようになり、大阪の鴻池家の主治医となった。蓄財家としての才能もあり、財政難に苦しむ田辺藩に1500両を貸し付け、各藩から財政運営の助言を乞われた。また、新田開発に出資をするなど農業振興にも尽くした。53歳で京都南禅寺近くに学問所「順正書院」を開設し、外科・内科・薬学などを教えるだけでなく、文化サロンの役割も果たした。医学書を中心にした多くの蔵書とともに、後の京都の医学の基礎にもなった。「新宮凉庭集」はA5版、408ページ。長崎留学までの道中と長崎での出来事を書き残した「西遊日記」、病弱だった娘まつを伴い城崎温泉へ湯治に出かけた京から但馬までの旅の記録「但泉紀行」、晩年の人生訓や江戸末の世相批判などを書いた「破連家能つヾ久里話(やぶれやのつづくりばなし)」の原文と現代語訳を掲載した。「西遊日記」には日記が出版されたいきさつ、広島の和蘭医学者、中井厚澤氏の元を訪ねると、重い病気だったため1カ月看病に尽くし、中井氏はその恩義に応え秘匿していた西洋医学の書を貸し、65日かけて45冊を筆写したと記した。また、長崎では「外出せざる事二百五十日」の猛勉強でオランダ語をマスターし、医学書を翻訳するまでになったとある。「但泉紀行」では、由良川河口部に船で移動し、神崎浜の松林で白砂がまるで洗ったように美しく、女子供たちは喜び、飛ぶようにして海岸を歩き回り、宴会は夜明けまでつづいたとその様子を綴る。「破連家能つヾ久里話」の中の「国益は農業産業を勧むるにあるを論ず」には、新田開発をしても荒れ地にしてしまうものが少なくなく、郡奉行らは百姓と懇切に接して荒れた田地の復興をさせるのがいいと述べている。公文さんは「人並はずれた勉強家でびっくりした。文章からは各地の当時の風土や暮らしもわかる。田辺の誇る文人を知ってほしい」と話している。200部作成し、関係者に配布した。舞鶴堂書店で販売している。
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