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浮島丸事件 下北からの報告 ④語り伝える下北の市民たち 地道な調査研究 運動のうねりへ 証言集、演劇、集会で発信 韓国の生存者とも交流、幅広い支持へ壁も【舞鶴】

浮島丸事件 下北からの報告 ④語り伝える下北の市民たち 地道な調査研究 運動のうねりへ 証言集、演劇、集会で発信 韓国の生存者とも交流、幅広い支持へ壁も【舞鶴】

投稿日時:2011年09月24日(土)

 過酷な労働をさせられていた朝鮮人労働者、そして彼らと家族を乗せた「浮島丸」の出港を目撃した下北の人たちだったが、船が舞鶴湾で爆沈し多くの犠牲者を出したことは当時国内で報道されなかったこともあり、戦後20年以上、ほとんどの人が浮島丸事件を知らずにいた。下北での火付け役となったのは元青森短大助教授の秋元良治さん(故人)と、元小・中・高校で教員を務めた鳴海健太郎さん(80)たちだった。舞鶴で犠牲者を追悼する殉難の碑づくりをする話を、秋元さんが関西での教職員組合の集まりで聞き初めて事件を知る。1968年教育研究集会で事件の話をすると、教師仲間の鳴海さんらと「朝鮮問題懇話会」をつくって研究を始め、朝鮮人たちの飯場の場所を調査し下北にいた人数を明らかにした。鳴海さんは戦時中の少年時代、朝鮮人の子供たちと遊んだり、飯場から作業現場に向かう労働者たちとよくすれ違っていた。戦後、大湊の常楽寺で聞いた「朝鮮人を乗せた船が沈んだらしい」という話に驚き、少しずつ浮島丸事件を調べていた。  その後、懇話会の結成で調査が加速し、国会図書館などで資料の発掘、目撃者の聞き取り、船の出港に関わった大湊警備府関係者からの貴重な証言を聞きだした。そうした成果を新聞や雑誌に個人やグループで発表し、事件への関心を集める役割を果たしたのだ。調査・研究活動を土台に、大きな運動が生まれた転機は1991年。「下北の教育を考える大集会」で、鳴海さんが行った事件の報告を聞いた中に、37年間の高校教師の生活を終えたばかりの斎藤作治さん(81)がいた。斎藤さん自身も小学生時代、鉄道工事の労働者が大きな棒で容赦なく殴られていた光景を目にしている。「下北の人はこの事件を忘れてはならないし、後世の人にも伝えなければならない」と報告に強い衝撃を受け、持ち前の行動力を発揮することになる。その年の12月、「下北の地域文化研究所」を設立し、最初の仕事として約20人の市民が編集委員となり、事件の背景や下北での朝鮮人の強制労働を聞き取り、証言集『アイゴーの海』を翌年出版。初版の1000部は予想を越える売れ行きで、急いで500部を再版するほどだった。同時期、地元のアマチュア劇団「未来半島」が事件を題材に、「七軒番屋の人々」など2つの舞台を上演した。  平安京の建都1200百年を記念し、京都の市民グループが事件を取り上げた映画「エイジアン・ブルー」の製作を決定すると、93年「浮島丸下北の会」を結成し、翌年下北でのロケに協力するとともに、第1回の浮島丸出港追悼集会を菊池桟橋跡地で開いた。そして完成した映画の上映運動へ。韓国とのつながりも生まれた。『アイゴーの海』の韓国版が、事件で救出された韓国在住の人たちの証言も追加され出版された。むつ市の元中学校教諭、佐藤ミドリさんは94年韓国を訪れ、戦時中、大湊国民学校の生徒として下北で過ごした事件の生存者、チャン・ヨンドさんに会いその体験を聞き取り、96年にも下北の会メンバーらと再度訪韓し交流を深めた。新聞やテレビも事件を取り上げるようになり、下北の活動は全国に、韓国にと発信する力を見せる一方、課題もあった。地域ではまだまだ事件を知らない人、強制労働の史実を知りたくない人も多く、運動が下北で幅広く支持されるのは容易でなく、当初から目標としていた浮島丸出港地点の記念碑の建設計画もはかどらず、厳しい現実にも直面していた。青森県むつ市 旧南部藩・斗南藩ゆかりの町「田名部(たなぶ)町」と、旧海軍の町「大湊町」が、1959(昭和34)年9月に合併し、「大湊田名部市」となった。翌年の60年に日本で最初のひらがな市名の「むつ市」と改称。平成の大合併が進む2005年、むつ市と川内町、大畑町、脇野沢村の四市町が合併し、いまの市域のむつ市が生まれた。8月末現在の人口は6万3893人。

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