最新の記事

  

浮島丸事件 下北からの報告 ③建設現場の実態 暴力で過酷な労働強いる 下北の人、かくまい逃走手助けも 巨大なアーチ橋、強制労働伝える 舞鶴市民 重い歴史受け止め【舞鶴】

浮島丸事件 下北からの報告 ③建設現場の実態 暴力で過酷な労働強いる 下北の人、かくまい逃走手助けも 巨大なアーチ橋、強制労働伝える 舞鶴市民 重い歴史受け止め【舞鶴】

投稿日時:2011年09月16日(金)

 朝鮮人労働者たちは鉄道や海軍ドック、飛行場などの建設現場でどんな作業の毎日を送っていたのか。前出の『アイゴーの海』に地元の人たちが目撃した様子を証言している。「タゴ(タコ)」と呼ばれた労働者たちは、2人が1本の丸太に吊るしたモッコで土を担いで運んだ。背負子のむき出しになった針金の紐が、上半身裸の肉に食い込み血が流れ、時には化膿して膿がダラダラと背中を伝い、その中をうじがうごめく。履物はほとんどの者が裸足にセメントの袋を履いて、縄でぐるぐる巻きにして歩いていた。  作業現場には監視をする棒頭(ぼうがしら)が必ずおり、動作が鈍い者などを容赦なく棍棒で殴りつけた。大湊の海軍病院に勤務した元看護婦は「棒頭に殴られてよく手や足の骨を折られて治療に担ぎ込まれてきた」という。こうした労働にたまりかね、逃亡する朝鮮人も多かったとされる。逃亡者が出ると作業を中断して全員で追跡した。下北は要塞地帯であるが故、警察や憲兵の監視が厳しく逃亡は困難だった。捕まると見せしめのため激しいリンチが加えられた。そんな中でも逃げてきた朝鮮人をかくまい、逃亡を手助けした下北の人たちもいる。ある漁師は日本人の漁師の格好をさせ、船に乗せて北海道へ逃がした。イカ漁の盛んな大畑町で暮らす漁師らの七軒番屋では、近くの飯場で生活する朝鮮人労働者たちを呼び寄せ、一緒に食事をするなど親交を持った。最も過酷だったのが大間鉄道建設。下北から半島最北端の大間までの約50キロの路線。1937(昭和12年)ごろ着工し、39年12月に下北駅~大畑駅が開通。その後も建設は続けられたが43年12月工事は中止に。トンネル工事などで多くの犠牲者を生んだ。舞鶴の一行は8月27日、事件を語り伝える「浮島丸下北の会」の案内で、鉄道跡などを見て回った。風間浦村下風呂の12連アーチ橋は、1億2千万円をかけ94年に修復工事が完了し、現在は長さ270メートル、幅3メートルのメモリアルロードとして保存されている。むつ市大畑町に残る二枚橋のアーチ橋(長さ101.5メートル)。下風呂アーチ橋と同じく、鉄筋は入っておらず木枠にセメントを流し込み、積み上げていったコンクリート製だ。足場を組み重い資材を運び上げたが、高い陸橋から落ちて大けがをしたり死ぬ者もいた。風雪に耐え一部が黒ずんでいる。下北の会で保存を陳情したが、地元は取り壊しを要望している。強制労働を伝える巨大なモニュメントのようにそびえ立ち、当時を容易に思い起こさせる橋の存在に市民らは圧倒された。最後に訪れたのは、沖合に停泊中の「浮島丸」に乗船するため集まった菊池桟橋跡。小さな桟橋が帰国を待ち望む人たちで身動きできない状態だった。桟橋はすでになく、海岸部は埋めたてられ駐車場になっている。  下北の会の斎藤作治さん(81)=むつ市=は、防空壕掘りなどをさせられたキム・スゴンさんが47年ぶりに下北を訪れたときのことを語った。「菊池桟橋跡に立ったスゴンさんは『我々が強制連行されて、つらい労働をここでさせられたということを、日本人と下北の人たちは忘れないでほしい』という言葉を残していきました。それが私の浮島丸運動のバネになっています」紙芝居上演スタッフとして参加した真下洋子さん(63)=伊佐津=は「辛い労働をさせられ、やっと故郷に帰れるという喜びで桟橋に集まって来る姿、そして船が沈んで絶望に変わる様子までもが目に見えるようでした」と話す。舞鶴市民の一人一人の胸に、建設現場跡に刻まれた重い歴史と下北の人たちの言葉がしっかりと届いた。

この記事をシェア!
Management BY
舞鶴市民新聞
当サイトは舞鶴市民新聞社が運営しています
ページトップへ