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東舞鶴高等女学校の卒業生たち 喜寿77歳迎え母校跡で当時を偲ぶ【舞鶴】

東舞鶴高等女学校の卒業生たち 喜寿77歳迎え母校跡で当時を偲ぶ【舞鶴】

投稿日時:2005年04月08日(金)

当時は若木だった桜を思い浮かべ、与保呂川沿いを歩く卒業生ら

 昭和20年の舞鶴空襲を体験した府立東舞鶴高等女学校の卒業生たちが、77歳の喜寿を迎えたのを記念し、4月5日、懐かしい学校跡を訪れるなどした。行永の学校跡は青葉中学校になっており、当時の学校を偲ぶものは玄関前の松や与保呂川沿いの桜しか残っていない。各地から集まった女性たち37人は、川の土手を散策して当時は若木だった桜を思い浮かべたり、戦時下の思い出を語り合った。同女学校は昭和15年に開校し、同18年に舞鶴第2高等女学校に改称された。戦後は同23年に東舞鶴女子高等学校となり、同年12月に旧舞鶴第2中学校などと統合し、東舞鶴高校になった。喜寿を迎えたのは同21年と22年の卒業生138人。戦時中は学徒動員で海軍工廠で働き、20年7月29日には97人の犠牲者を出した舞鶴空襲を体験した。同工廠に出勤のため中舞鶴駅に到着すると空襲警報が鳴り、機銃掃射に追われながら防空壕に逃げたという。教諭が1人亡くなった。卒業生たちはほぼ毎年クラス会を開いてきたが、今回は市内はじめ、静岡や京阪神などから37人が参加した。女学校で終礼の鐘として使われていた「まごころの鐘」を展示する泉源寺の東高を来訪。続く青葉中では当時からある松を眺めたりして、卒業から約60年ぶりに訪れた人は盛んに懐かしがっていた。クラス会幹事の福嶋綾子さん(76)=倉梯町=は「学校ではグラウンドにいも畑を作りました。海軍工廠への動員と空襲が一番記憶に残っています」と戦時下の学校の思い出を同級生らと振り返っていた。

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