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明治維新期の舞鶴伝える「多日新聞 第壱」 近く市郷土資料館へ、希望者に読み下し文【舞鶴】

明治維新期の舞鶴伝える「多日新聞 第壱」 近く市郷土資料館へ、希望者に読み下し文【舞鶴】

投稿日時:2007年11月30日(金)

「多日新聞 第壱」(右)と、その読み下し文

 江戸末から明治維新期の7年間の舞鶴の様子を綴った「多日(たじつ)新聞 第壱」の発見者の法政大学講師、筑後則さん=千葉市=が、近く市郷土資料館にこの原本を寄贈する。オランダ船の来航や村々の大洪水など、当時の田辺の政治や社会情勢を記した貴重な資料。田辺藩裁判資料研究会(加藤晃会長)が読み下し文を作成し、解読にも取り組んだ。  「多日新聞 第壱」は縦22.4センチ、横15.8センチ、20ページ。筆者名はないが、「当村」とあることから田辺藩在住の農民が記したものらしい。17歳から見聞きした事柄を後世に伝えようとメモで残し、晩年になって「多日新聞」としてまとめたと後書きにある。1864(元治元)年から1870(明治3)年までの出来事を記録した。  筑後講師が東京神田の古本屋で見つけ、指導を受ける同会会員の若林浩夫さんがコピーを受け取り、同会会員の高橋俊治さんが3年前に読み下し文を作成。版籍奉還の反発からか家老宅へ藩士が鉄砲を3発打ち込んだ事件、舞鶴に来航したオランダ船の乗組員が上陸して山の高さを測量したこと、頻繁に起きた洪水で飢饉となった村人の苦境などの様子を伝える。  原本を同会にこのほど託し、同資料館への寄贈を申し出た。筑後さんに代わって届ける加藤さんは「明治維新のとき、舞鶴からも多くの若者が新しい日本をつくる事業に加わり、そのころの舞鶴の様子がよくわかる史料です」と話す。同会で作成した読み下し文10部も一緒に届け、希望者に持ち帰ってもらえればという。

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