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戦争の悲劇繰り返すな 戦後70周年市民フォーラム 体験者8人が証言 「無惨な光景頭から離れず」【舞鶴】

戦争の悲劇繰り返すな 戦後70周年市民フォーラム 体験者8人が証言 「無惨な光景頭から離れず」【舞鶴】

投稿日時:2015年08月04日(火)

戦時中の体験を語る市民たち

 戦後70年を迎え、戦争や戦時生活の体験者の証言を聞こうと、市民交流フォーラム(同実行委員会主催)が、舞鶴空襲のあった7月29日、北吸の市政記念館であった。浮島丸事件で朝鮮人たちを救出した様子、日本の勝利を信じていた元軍国少年少女の思い、舞鶴空襲で目に焼きつく悲惨な犠牲者の姿など、いまも鮮明な記憶を8人が語り、「戦争は絶対にしてはいけない」と訴えた。フォーラムには120人が参加。第3火薬廠や海軍工廠で勤労学徒だった人、国民学校在籍で学童疎開をしていた人らが報告に立った。下佐波賀に住んでいた土佐章雄さん(83)は朝鮮人たちを乗せた船が舞鶴湾内で爆発沈没し、多くの犠牲者を出した浮島丸事件を目撃し、救助の様子を初めて公開の場で証言した。凄まじい音と共に黒い煙と白い蒸気を上げた浮島丸が真ん中から折れて沈み、叫び声などが聞こえてきた。父を乗せて船を操り海に投げ出された人を救出し、7、8人を乗せては岸に上げた。浮島丸からは次々と人が海に転落するのが見えた。岸についた人達は「アイゴー、アイゴー、水をくれ」と歩いていた。土佐さんは「2日後には海岸に多くの遺体が流れ着き、ずらりと海面に浮んでいた。その様子は言葉にしようがなく、いまも佐波賀に行くたびに思い出す」と話した。軍需部に勤務していた瀬野知之さん(87)は、舞鶴空襲で船を沈めた米軍の攻撃を体験。火災が起きた船から海に飛び込んだ人を米軍の戦闘機が機銃掃射をした。「弾が近くを飛んできても恐くなかった。戦争は死をも恐れない精神状態にさせてしまう」。そして「なぜ70年前のことをはっきり話せるのかわかりますか。無惨な光景が頭から離れないからです。戦争の悲劇はもう味わいたくない」と結んだ。舞鶴第2女学校生徒で海軍工廠に動員されていた川﨑美幸さん(84)は、舞鶴空襲を体験したが、防空壕に逃げ込み間一髪で助かった。「その日はどうやって帰ったのか覚えていない。いまも思い出しただけで震えが止まらない。平和を祈るばかりです」と語った。最後に主催者側から「100年の平和の基礎が築かれることを広く訴える」とのアピールが行われ、参加者たちが賛同した。

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