往年の「舞鶴場所」 裏付け確認
投稿日時:2018年03月02日(金)
昭和20年代に東舞鶴で開催されたと言われていた「相撲巡業」を裏付ける証拠を本紙が確認した。浜の故・上野健三氏が所有していたもので、当時使用された「御幣」や「宿割帳」「買物控帳」などが多数あり、当地で相撲巡業が非常に多く開かれていたことがうかがえる。同家に住む上野正子さん(86)は「戦後、舞鶴を活気づけるために奔走していた。こうやって多くの人に見てもらえれば、義父も喜ぶと思う」と話している。
【歴史紐解き浮かび上がる舞鶴と相撲】
当時舞鶴で相撲巡業があった事は多くの市民からの情報提供や取材で確認していたが、“市民が持つ物的証拠”を本紙が確認したのは初めて。「御幣」は、高さ90cm、横5.2cm、奥行き2.5cmで、上部には縦書きで「蒙御免」(ごめんこうむる)と書かれており、その下に4横綱「照国万蔵」「羽黒山政司」「前田山英五郎」「東富士謹一」と「昭和24年」と記されている。「宿割帳」は昭和21年、同22年、同26年のものがあり、双葉山、羽黒山、照国などが「松栄館」や「松月」「花月」など当時の旅館に泊まっていた事が記録されている。また、「河田亮路殿宅」や「池田享郎殿宅」など個人宅に泊まっていた記述もあった。池田享郎・元府議宅に羽黒山が泊まっていたことを記憶する市民の情報は以前から多数あり、それを裏付ける証拠となった。「相撲買物控帳」は同21年のもので、「金弐萬円 相撲契約代」や「金七仟八百円 小屋立及ツブシ一式」などと記されており、当時の売買価格が細かく記されている。大相撲舞鶴場所実行委の河田友宏委員長は「かつての舞鶴市の心意気が分かる確実な証拠。よく見つかってくれた。当時も大変にぎわったと思う。舞鶴場所も大いに盛り上げていきたい」と喜んでいる。
【上野健三氏、戦後 相撲誘致に奔走】
所有者である上野氏は、全京都相撲協会から舞鶴支部長を委託されていた事が確認できた。勧進元として舞鶴相撲連盟と連携しながら奔走していたと思われる。興行師ではなく、本職の建設業をしながら誘致活動を続けた。本紙の取材で昭和21年から昭和31年まで少なくとも4度「舞鶴場所」を誘致していた事が確認できた。正子さんは「義父は元海軍だった事もあり相撲と繋がりがあった。豪快な性格で、娯楽で人々を楽しませようとしたのだと思う。蛇島に公園を建設する計画や、東舞鶴駅のグラウンドに競輪場を建設する構想もあった」と振り返った。戦後の混乱期、人々が希望を見いだせない中、相撲で舞鶴の市民を元気づけようと、何度も誘致に奔走した上野氏の姿がそこにあった。「義父は町に貢献して、なんとか市民を元気づけようとしていた。その事に喜びを感じていました。こうやって、かつての品々が注目され、多くの方に見ていただけると喜んでいると思う」と思いを述べた。上野氏は昭和30年頃に脳溢血で倒れ半身不随に。2年後の昭和32年に他界する。享年65歳。昭和30年に交わした「相撲興行売買契約証」には息子・上野武雄(男)氏の署名があり、父のサポートをしていた事がうかがえる。また、同家に残る多くの書簡からは、倒れた後も頻繁に相撲協会と連絡を取り合っており、最後まで相撲誘致に尽力していた事が分かった。上野家には昭和31年、三条海岸で行った巡業の書簡を最後に、関係書類は見つかっていない―。
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