強く生きた日々の記憶を 西方寺・大庄屋上野家で
投稿日時:2021年07月13日(火)
76年前の学童疎開 紙芝居で伝える平和の尊さ
戦後75年の節目だった昨年は、新型コロナの影響で様々なイベントの開催を見送る形となった。しかし、戦争の惨禍に目を向け、平和の尊さを学び継ぐことを忘れてはいけない。悲惨な戦争の史実を風化させまいと、本市でも様々な市民団体が史実の継承を願い、記憶を語り継ぎ、尊い平和を訴えている。
西方寺の大庄屋上野家では「76年前の学童疎開 子どもたちの生活と由良川の大洪水からの脱出」と題した企画展を開催。実話をもとにつくられた紙芝居の展示などを通して、戦時下や危機迫る水害の様子を伝えている。26日まで。無料。
紙芝居では、現在の明倫小児童46人が終戦間際の1945年8月10日、へ疎開するところから始まり、10月にあった由良川氾濫での大洪水や脱出などおよそ3ヶ月の出来事が丹念に描かれている。
2014年に「戦争・空襲メッセージ編さん委員会」が作成を依頼し、元小学校教師らによりつくられた紙芝居。当時新米教師として引率に当たった荒木花子さん(96)の手記をもとに、脚本を山口妙子さん(92)・野垣幸子さん(75)、絵を余江美穂子さん(76)が手がけた。
1945年6月29日と30日に舞鶴空襲があり、子どもの安全を強く願った保護者らの要請により学童疎開は決まった。
子どもたちは、親元を離れることで泣きじゃくりながらも、荷物を収めたリュックを背負い出発。由良川沿いにある荘厳寺を目指し、15キロの道のりを歩く。どの子にとっても初めての長距離。泣き出す子をなだめ励ましながらも「本当は自分が泣き出しそうだった」という荒木先生の胸の内と、たくましく子どもたちに寄り添う両面の心情が表現されている。
終戦後もなかなか家へ帰れず、心細い気持ちでの生活は続いた。そんな子どもたちを由良川大洪水が襲ったのは10月。あたり一面は水につかり、舟でやってきた消防団に大声で助けを求めた。紙芝居には、恐怖を感じながらも2階の屋根伝いに無事救助されるまでが丁寧に描かれている。
10日には、「絵本の会」山口さんと野垣さんによる紙芝居の読み聞かせがあった。またこの日訪れた人の中には、特別な気持ちで耳を傾ける4人がいた。この実話の登場人物で、当時6年生だった矢原千鶴子さん(88)内山美沙緒さん(87)、4年生だった安田邦子さん(85)、3年生だった壷内正治さん(85)だ。
壷内さんたちは、「これまで目にしたことのない水の量や瓦の上で足が滑ったらどうしようなど、とても怖かった」と救助された時の思いを振り返る。
矢原さんと内山さんは「これまでは何でも親がしてくれたけど、今は自分たち6年生が一番のお姉さん。しっかりしなくちゃと思った」と言いつつも、夜になって安田さんたち3・4年生がすすり泣く声が聞こえてくると「もうたまらず、つられてしまって、布団の中に隠れて泣いていました」と話す。一方、防空壕に逃げるため夜中にたたき起こされることはなくなり、ゆっくり寝ることができるようになったことは喜びだったという。
水害の恐怖を前に不安なだったはずの4人だが、「(引率してくれた)小柴先生がお父さん役、古牧先生(荒木先生)がお母さん役みたいな感じで、本当にやさしく、よくしてくれた。おかげで気が紛れた」と二人に対する深い感謝の思いを口にする。
また4人は、たまにおやつで盃一杯分の大豆が出されたといい、「嬉しかった。半分の半分ずつ食べたりして」「6年生は少し多め。そうそう、楽しみだった」と話し、つらいことばかりではなかったと当時を思い出しながら笑顔を弾けさせた。
紙芝居に描かれている疎開先でのおよそ3ヶ月。帰る頃には自身でも自覚するほどに成長を感じたという。
たくましく生き抜いた世代に学ぶことは今なお多い。戦争体験者の高齢化により、当時の貴重な話を聞くことは年々難しくなっている。いつかは戦争を知らない世代だけになってしまうが、どんな時も前を向き、平和の尊さを噛みしめる喜びを忘れていけない。
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