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庶民の庚申信仰30年かけ調査 江戸時代に爆発的に広まった信仰の足跡 安田さん、90歳を機に出版 舞鶴の庚申塔や本尊、伝承などまとめる 加佐、西、東、104の庚申塔を紹介【舞鶴】

庶民の庚申信仰30年かけ調査 江戸時代に爆発的に広まった信仰の足跡 安田さん、90歳を機に出版 舞鶴の庚申塔や本尊、伝承などまとめる 加佐、西、東、104の庚申塔を紹介【舞鶴】

投稿日時:2011年08月19日(金)

中国で生まれ、日本に伝えられて江戸時代に庶民の間に爆発的に広まった庚申(こうしん)信仰について、堀上の安田重晴さん(90)が舞鶴での信仰の歴史を調べて1冊の本にまとめた。約30年かけ加佐や大浦などを歩き、草むらにひっそりと立つ石造の庚申塔や本尊、伝承などを探し、「庚申さん」と親しまれた往時の信仰の足跡を記録した内容になっている。90歳を機に出版した。  江戸時代に整備された舞鶴と周辺地区の街道と道標を対象に、1980年から調査を開始した安田さんは、その成果を『まいづる田辺 道しるべ』の本として98年に出版。道しるべの調査中、多くの村の入り口に庚申塔も立っているのに気づき、庚申塔も探し記録に留めるようにした。昨年までバイクに乗って現地調査に取り組んできた。  庚申信仰は中国三国時代から晋の時代(220~420年)、道教思想の三尸(さんし)説が起源とされる。人の体内にいる三尸という虫が庚申の日に人が寝ている間に体を抜け出し、その人の罪過を天帝に告げ寿命を縮めるとされ、それを防ぐために庚申の夜は虫が出ていかないように寝ずに過ごすことが説かれた。庚申の日は60日ごとに1年で6回巡ってくる。  日本にいつ伝えられたのは分からないが、奈良時代の「続日本記」に宮中で庚申のお遊びが行われたと初めて記録に出てくる。室町時代後半には神仏と結びつき庶民の間に広がり、江戸時代に入ると各地に庚申堂を建て、講といわれる集まりが結成され、徹夜で語り明かす一種の楽しみになった。その後は信仰心が薄れた。  完成した本『まいづるの庚申信仰と歴史』はA4版で245ページ。庚申信仰の概要、日本での歴史、舞鶴の加佐、西、東などの各地区別に庚申塔など104件の建立年月日、大きさ、本尊、表示内容、古老から聞き取った伝承などを記している。  舞鶴で最も古い庚申信仰に関わる資料は鎌倉時代前期作の松尾寺の「南山曼荼羅図」であり、江戸時代初期には舞鶴で初めて庚申堂が西町に建立され、田辺城下に信仰を広める役割を果たした。加佐地区は各集落に江戸時代末までに庚申塔が次々と建立され、その数46基になり信仰が盛んだったことが分かった。  また、市内の多くの庚申塔は全てが「庚申」と文字が刻まれているが、大波下のものは市内で唯一、邪鬼を踏みつけた青面金剛像、左側に童子、右側に三猿を配した石仏で珍しい形だった。  安田さんは「いまでは舞鶴でも庚申信仰を見ることができなくなりました。こうした信仰の歴史を知ってもらえれば」と話している。100部作成した。有料(1,000円)で配布している。

【問い合わせ】電話75・2713、安田さん

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