学童疎開体験を語り合おう 明倫国民学校元教師 荒木さんら 子供たちの命を守ることが大事 1人でも多くの児童と会いたい【舞鶴】
投稿日時:2015年09月01日(火)
戦時中、戦況の悪化に伴って米軍の空襲を逃れるため、国が実施した学童集団疎開から70年。舞鶴市も疎開都市に指定され、子供たちが強制的に親元を離れ、地方の寺などで暮らした。明倫国民学校の児童と教師らは疎開中に台風の洪水被害も重なった。戦後70年経って当時の体験を語り合おうと、元教師と元児童らは同級生の消息を捜している。(青木信明)集団疎開は1944年8月から東京や横浜など全国13の都市で開始され、翌年4月からは舞鶴市など4都市が加えられた。京都府下では京都市と舞鶴市のみで、終戦後の10月まで続いた。舞鶴では8つの国民学校の3年~6年の児童約1300人が丹後地域に受け入れられた。明倫国民学校では45年4月に京丹後市の旅館などで第1次疎開が始まった。7月29日の舞鶴空襲を受け、8月から第2次疎開が決まり、1班50人が桑飼下の公会堂へ、2班42人が宇谷の荘厳寺に寄宿し、岡田上の学校へ通った。水間の荒木花子さん(90)は、45年4月に新卒教師として同学校に赴任、荘厳寺への疎開に付き添った。親から離れた子供たちは寂しさから学校に行きたくないと泣き、なだめて学校へ連れて行った。食事は配給米だけでは足りず、子供たちのため教師たちがヨモギやニラ、芋ツルなどを採り、米に混ぜて弁当に詰めた。疎開中、台風による由良川の洪水を体験。昼ごろ本堂にまで水が押し寄せると、児童たちと階段を上がり位牌堂に逃げた。しばらくすると消防団が船で救助に来て、屋根から船に乗り込み、山に下ろしてもらった後、宇谷神社の舞堂に避難し、いろりに火をつけて一晩を過ごした。翌朝水が引いているのを確かめ、子供たちを寺に戻した。疎開中の思い出について荒木さんは「台風では子供たちの命を守ることだけを考えた。避難した舞堂でマッチに火をつけると、暗闇に寝ている子供たちの並んだ足が浮かび上がったのを覚えています」という。戦後、しばらく子供たちと手紙のやりとりが続き、自宅に遊びに来る人もいた。最近になって荒木さんは元児童たちと思い出を語りたいと話し合い、市内在住のクラスメート6人を見つけた。荒木さんは「1人でも多くの児童と集まりを持ちたい」と話していた。心当たりのある人は壷内正治さん(電話75・2448)へ。
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