地域の誇りを後世に 大浦歴史研究会 千歳に歌碑を建立
投稿日時:2021年02月02日(火)
1月に解散した大浦歴史研究会が昨年12月、室町時代後期に活躍した連歌師・里村紹巴(じょうは)が詠んだ歌の歌碑を千歳に建立した。大浦の海を臨む絶好の場所に佇む歌碑が、「古の絶景を偲ぶスポットになれば」と関係者らは期待に胸をふくらませている。
大浦の歴史について勉強会やフィールドワークを行ってきた大浦歴史研究会は、1995年に31人の会員でスタートした。千歳での火力発電所建設計画が進みはじめ、大浦地区の環境保全、歴史保全に対する声が大きくなっていた頃のことだ。主に地区にゆかりのある歴史愛好家で構成された同会は、毎月例会を開催。発電所建設に先立つ発掘調査で1998年、日本史上でも重要な発見となった丸木舟が出土するなど研究対象が豊富だったこともあり、同会は活発な活動を展開し、解散するまでに開催した例会は266回を数えた。しかし近年は、会員の高齢化が進むとともに新規の入会者もなく、会員で協議を重ねた結果、解散を選ぶことになった。解散に当たって話し合うことになったのは、設立以来少しずつ貯めてきた事業資金の処分。様々な案が出る中で、最終的に千歳地区にゆかりのある歌碑を建立することに決定した。事業費は110万円。歌碑は舞鶴市に寄贈するという形をとり、大浦の海を臨む公園の一角に建立された。設立時より最年少の会員として活発に活動してきた竹内謙一さん(66)は、「素晴らしいロケーションで歌碑を建てることが出来た。感無量です」と笑顔を見せた。
【往時の絶景歌碑で偲ぶ】
歌碑に刻まれた歌は「夏の日やふへき千とせの浦の松」というもの。詠まれたのは永禄12(1569)年6月。当代随一の連歌師・里村紹巴が、天橋立見物に向かう途中に千歳に立ち寄り詠んだ。歌は、京都から福井県の熊川、小浜、高浜、そして天橋立へと旅した紀行作品である「天橋立紀行」に記されており、「何千年と変わらない千歳の松は言葉に表せない美しさ」と解釈される。里村紹巴と親交の深かった細川幽斎も千歳の松を讃える歌を残しており、同所がかつて比類ない景勝地であったことが偲ばれる。千歳の集落は、江戸期までは波佐久美(はさくみ)村と呼ばれたという。「千歳」の地名の由来は、千歳山に文珠菩薩の霊場があり千年説法にちなんだと考えられる。地名を改称したのが天和3(1683)年と記録に残っていることから、歌に詠まれた「千とせ」はそこから100年以上遡ることになり、その変遷を考えると歴史ロマンを感じずにはいられない。竹内さんの幼少時までは同所の海岸線にあったという砂浜も今はなく、松林もない。名だたる景勝地であった松林が消えた理由について竹内さんは、「軍港として急速に栄え始めた頃に海外から持ち込まれた松くい虫によるものや、同所近くにあった魚雷発射場からの誤射によるものなど、何らかの環境変化の犠牲になったと推測される」と話す。里村紹巴の歌碑は、今回のものを含め全国に3カ所になるという。竹内さんは「まさにこの景色を眺めながら詠んだ歌だと思って、景色を眺めてほしい」と来訪を呼びかけている。時代の最先端を走り抜けた文化人に詠まれた絶景の記憶。そんな歴史ロマンに浸ってみてはどうだろうか。
※歌碑のある公園は、千歳駐在所に隣接している。
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