千葉大・菅原教授が『平野屋町文書目録』 8月6日、完成記念講演会 【舞鶴】
投稿日時:2005年08月02日(火)
平野屋自治会に伝わる江戸時代から昭和までの古文書を調査した千葉大学の菅原憲二教授が、『丹後国田辺城下平野屋町文書目録』としてまとめ発刊した。「会所」と呼ばれた町の集会所が、田辺城下の各町にあったことが明らかになった。全国的にも極めて少ない例で、田辺の町人の自治の高さを知る貴重な記録。地元町内会や郷土史の研究家たちも、調査などに協力した。目録の完成を記念して、8月6日午後7時から円満寺の西市民プラザで、菅原さんらの講演会が開かれる。1580年(天正8年)、丹後に入国した細川藤孝・忠興親子によって田辺城の建設が始まり、本町、ヨコ町(いまの平野屋町)などが作られ、町の骨格が成立した。その後も次々と町屋ができ、11町で構成されるようになった。平野屋は鍛冶職など火を扱った職人が多かった。平野屋町古文書は市教委などで一部調査が行われただけだったが、近世都市の運営に関心を寄せる菅原教授が、2001年から学生らと全面的な調査を開始。ほとんど未調査の町屋文書の解明を進めようと、舞鶴地方史研究会や市郷土資料館も協力し、目録カードを作成した。その目録を同自治会の松田正之助さんがワープロで入力して冊子に仕上げ、それを基にデータベース化して今回の目録が刊行された。目録はA4判で133ページ。1639年から昭和までの607通の文書について、祭礼や宗教など8つに分類し、差出人などを掲載した。平野屋で営まれた商売を一覧にした「諸職諸商売書上帳」などがあり、当時の暮らしぶりや祭礼の様子を知ることができる。近世後期に平野屋町に町会所があったのは、平野屋町屋敷間数図から分かった。町会所は町の寄り合いのほか、祭礼道具の保管などに使われた。菅原教授は目録の解説で、「特権的町人の少ない、市民的要素の強い町が町屋敷を購入して集会所とし、道具とともに証文を今日に伝える事実は特筆に値する」と記す。同自治会の日置敏夫会長(77)は「いまの人たちに町に親しみをもってもらう機会になれば」と話していた。四百部作成し、全国の大学などに配布した。記念講演会では、菅原教授が「江戸時代の平野屋町」、同研究会副会長の加藤晃さんが「城下町田辺はどのように作られたか」と題して話す。入場無料。
【問い合わせ】電話75・2452、日置さん。
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