創業明治 令和も挑戦~全国有数の老舗銭湯 営業存続へ
投稿日時:2020年01月24日(金)
1960年代には約60%に過ぎなかった家風呂普及率が現在はほぼ100%となり、公衆浴場を取り巻く環境は大きく変わった。そんな中、市内では2か所となった銭湯のひとつ「若の湯」(平野屋)が、ボイラーの取替に踏み切った。
全国の銭湯がここ数年、加速度的に姿を消している。厚生労働省が2018年に実施した調査によると、全国にある公衆浴場(銭湯)は3535軒と、5年間で約18%減少した。住宅環境やライフスタイルの変化など根本的な問題がその背景に存在し、廃業回避を目指すとしても、経営者の自助努力の範疇を大きく超えていると言える。現在市内には、西地区にある2カ所の銭湯を残すのみとなっているが、その内の一つである「若の湯」が諸般の事情によりボイラーの取替を迫られていた。若の湯の創業は1903(明治36)年で、全国でも有数の老舗だ。1923(大正12)年に建てられた現在の建物は、2018年に国の登録有形文化財に指定。営業中の銭湯が登録有形文化財になるのは全国で6例目の快挙だった。指定を受けた後はメディアへの露出も増え、県外からの客が多くなるなど営業への追い風を実感することもあった。しかし、銭湯を取り巻く環境が根本的に改善されるわけではない。「ボイラーの交換が必要になれば、廃業しかない」と、女将の若井康江さん(66)は考えていた。それは動かしがたい既定路線のはずだった。
【老舗の女将へ 運命がつないだタスキ】
若井さんが生まれたのは広島県福山市。水産関係の仕事に従事する父と専業主婦の母のもとに長女として生を受けた。長じて進学した神戸市内で、今は亡き夫と出会い結婚。工学関係の技術職だった夫との間に2子を授かり、家族4人大阪で幸せな日々を送っていた。転機が訪れたのは29歳の時だった。夫が難病を患い、介護しながら子育てをするために夫の実家がある舞鶴に身を寄せることになったのだ。1984年11月22日、若井さんは家族と共に舞鶴へ引っ越しをする。折しもその日は、えびす市の日。多くの人出でにぎわう商店街の雑踏の中、若井さんは若の湯の暖簾をくぐった。みぞれが舞い落ちる中、逃げ込むように踏んだ舞鶴の地。「何とも言えず侘しい気持ちだった」と振り返る若井さんだが、迷いや後悔はなかったという。「私の人生は、常にその時出来ることの選択だった。その選択がその先どうなるかを考えるのではなく、どちらの道にその時進むべきか。だから、決断は常にシンプルなんです」
【決め手は客らの笑顔 喜ぶ姿をずっと見続けたい】
縁もゆかりもなかった舞鶴だったが、義母のます枝さん(97)と二人三脚で子育てと銭湯の切り盛りにまい進した。2010年には原油高で経営が圧迫されたが、薪ボイラーの導入で切り抜けた。一度は諦めかけたその際にも、テレビで目にした姫路の銭湯に教えを請いに行くなど、持ち前の行動力で難局を乗り越えてきた。だが今回設備の更新を迫られ、「さすがに今度ばかりは無理だ」と考えた。「もう来年の今頃は風呂はない」と思い、その日その日の営業を噛みしめる日々が続いた。そんな中、常連客達の「気持ち良かった」と溢れる笑顔、「ずっと続けて」と常套句のように言い続ける言葉を反芻するうちに、次第に気持ちが鮮明になった。「やっぱり続けたい」
沸き上がった感情には、損得はなかった。決断以来、壁にぶつかる度に協力者が現れた。「ひとりでは出来ないことが、協力して頂ける方の助けで出来る」と若井さん。12日には最後の営業を終え、4月の営業再開を目指して休業期間に入った。「薪ストーブで始めた焼き芋は名物になって、ご愛顧いただいた。次はガスボイラーだから、それに代わる“売り”を作りたい」と若井さんは新たな挑戦に目を輝かせた。また、休業期間中は月・火・木・金の週4回、同店の常連客向けに、日の出湯(吉原)までの送迎を実施するという。「足が丈夫ではないお客様が特に気がかりで、少しでも役に立てればうれしい」と若井さんは話した。名所の存続はまちの財産。常連客と共に、首を長くして営業再開を待ちたい。
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