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体験の市民たち 共楽公園に 学徒の遺志受け慰霊碑を 舞鶴空襲の犠牲者を刻む【舞鶴】

体験の市民たち 共楽公園に 学徒の遺志受け慰霊碑を 舞鶴空襲の犠牲者を刻む【舞鶴】

投稿日時:2014年05月23日(金)

体験の市民たち 共楽公園に
学徒の遺志受け慰霊碑を 舞鶴空襲の犠牲者を刻む

終戦間近の1945年7月29日の舞鶴空襲で犠牲となった勤労動員学徒と教師の20人を追悼しようと、空襲を体験した元学徒たちが、爆心地近くの共楽公園=余部上=に、慰霊碑の建立を計画している。空襲で両目を失明し昨年亡くなった橋本時代さん=京都市=の遺志を引き継いだ。市民に募金への協力を呼びかけている。
 米軍機が舞鶴海軍工廠に5トンの模擬原爆を投下し、97人の犠牲者が出た。米軍は日本の49カ所に模擬原爆を落としたが、犠牲者の数としては舞鶴が最も多い。翌日の30日には142機の艦載機による攻撃で、83人が亡くなった。舞鶴には約2万人の学生が勤労動員されていたが、いまだにその全貌と空襲被害の詳細はよくわかっていない。
 京都市にある洛北実務女学校の生徒だった橋本さん(当時16歳)は、工廠造兵部で人間魚雷の部品を磨く作業中に爆弾が落ち、一瞬の内に目の前が血の色に染まり気を失った。爆風で吹き飛ぶガラス片が全身に突き刺さり失明した。コールタールで全身真っ黒になり、遺体置場に並べられたが、足が動いたのに気づいた人によって救助された。
 戦後もガラス片が残ったまま、右耳も聴こえなくなるが、マッサージ師の資格を取り懸命に生きた。自宅で毎朝、水を供えて亡くなった旧友らの名前を呼び、「平和を守って」と声をかけ、77年から毎年空襲の日に、共楽公園山頂の鎮魂碑を訪れ、「また、今年も来たよ」と語りかけ続けた。昨年12月、84歳で亡くなった。
 舞鶴空襲の体験者たちの手記をまとめた編さん委員会事務局長の関本長三郎さん(70)=大波上=が昨年、橋本さん宅を訪れ、学徒の慰霊碑建立と費用の寄付の想いを伝えられ、今年2月に市民たちで建立委員会を結成した。舞鶴市の了解も得て、爆心地を見下ろすことができる用地を確保した。
 慰霊碑は自然石で高さ1・65メートル。京都師範学校などの生徒、舞鶴第ニ高等女学校教諭だった藤田譲二さんら20人の名前と建立の趣旨を刻んだ説明板も建てる。費用は600万円で、橋本さんの遺族からの寄付と市民の募金をあてる。7月29日に除幕をする。
 同委員会の戸祭武委員長(84)=昭和台=は「勤労学徒は84、5歳となり体験者は少なくなっている。平和への願いを込めて碑を建立したい」と話している。募金は6月末まで。送金先は郵便振替00930―3―234497 舞鶴空襲学徒犠牲者慰霊碑建立委員会。 【問い合わせ】電話62・5736、関本さん

写真左=爆心地を見渡すことができる建立予定地(共楽公園)
写真右=亡くなった旧友たちの冥福を祈る生前の橋本さん(2009年、同公園)

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