丹後水軍の実体に迫る
投稿日時:2018年12月11日(火)
舞鶴地方史研究会の定例会がこのほど、西総合会館林業センター会議室であった。会員の廣瀬邦彦さんが、丹後の海賊・水軍を題材とした研究発表をした。同研究会では、毎月例会を開き会員や外部講師が地方史に関する様々な研究発表をしている。今月は廣瀬さんが「パイレーツオブタンゴ~丹後水軍の軌跡~」と題し、丹後で活動していた水軍・海賊に焦点を当て、歴史の表舞台に表れてから消えていくまでの軌跡を関係史料から説明。41人が参加した。廣瀬さんは、丹後の水軍・海賊は大永7年(1527)に初めて史料に登場したとし、「丹後」と「若狭」が、お互いに激しく攻め合っていた背景を説明。「海の縄張り」を争う瀬戸内の水軍と比較し、日本海の水軍・海賊は「陸の領地」を攻め合っていた点で活動形態が異なると話した。勢力拡大の経緯については、隠岐・出雲から若狭への廻船ルートの存在や、朝鮮との交易を記した記録などから、活発な交易圏があった背景を説明した上で、応仁の乱(1467)により、瀬戸内海の情勢が荒れ、流通に障害が出たことで、西日本海交易圏が活性化。同時に丹後の水軍・海賊も成長したのではないかと説明した。若狭側の水軍・海賊は守護・武田氏の勢力下にあったことが確認できる一方、16世紀後半になると、大名権力との関わりを持つが、「それ以前に丹後の海賊・水軍に関しては守護・一色氏との関係は少なくとも史料上では確認できない」と話した。その後、秀吉の海賊停止令(1588)が出され、海賊たちは大名の水軍に取り込まれるか武装放棄を選択。続いて朝鮮出兵(1592)が出され、そのうち細川忠興は3500人兵を出したが、「その中に丹後の水軍が使われたのではないか」と話した。
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