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東京の古本屋から農民の聞き書き「多日新聞」 明治維新期の舞鶴の様子伝える 【舞鶴】

東京の古本屋から農民の聞き書き「多日新聞」 明治維新期の舞鶴の様子伝える 【舞鶴】

投稿日時:2004年06月11日(金)

1864から7年間の出来事を綴った「多日新聞 第壱」のコピー

 1864年(元治元年)から7年間の明治維新期の舞鶴の様子を綴った「多日(たじつ)新聞 第壱」が東京の古本屋で見つかり、田辺藩裁判資料研究会(加藤晃会長)が読み下し文を作成し解読に取り組んだ。筆者名はないが田辺在住の農民の聞き書きと見られる初めての資料。蛤御門の変などの経過やオランダ船の来航などの時代の動きのほか、村々の洪水被害や訴訟など社会の様子を伝える貴重な資料となっている。「多日新聞 第壱」はB4判で18枚。村の様子を書く中で、「当村」とあることから田辺在住の農民が記したものらしい。17歳から見聞きした事柄を後世に伝えようとメモ書きし、晩年になって清書し「多日新聞」としてまとめたとある。法政大学通信教育部の教官、筑後則講師が東京神田の古本屋で購入し、通信教育を受ける学生で同研究会会員の若林浩夫さんにコピーを寄贈した。それを若林さんが会長の加藤さんに紹介し、研究会で昨年末から解読に取り組んでいた。読み下し文の作成は会員の高橋俊治さんが担当した。1870年(明治3)までの7年間にわたって、京都での蛤御門の変や旧幕府側だった田辺藩の様子、舞鶴藩の創設などが書かれている。その中でも、オランダ船が舞鶴に来航し、乗組員が上陸して山の高さを測量した記事、版籍奉還への反発からか大参事(家老)宅へ藩士が鉄砲を3発打ち込んだ事件も記した。66年と69年に洪水が頻繁に起き、上安久村など各村で民家が流失し、稲の収穫が皆無で飢饉となり、古い麦と黍(きび)を村中から持ち寄り一カ所で集まって食べた。収穫の取り分の改定で高持ち百姓と下作人が争い、双方の120人が京都太政官へ訴え出る途中で、追いかけてきた役人たちに連れ戻されたことも伝えている。加藤さんは「市内には維新前後のことを詳しく書いたものがないので貴重な資料。これから多くの人に見てもらって研究を進めていきたい」と話している。書き下し文の全文は舞鶴地方史研究会のホームページ(http://www5.nkansai.ne.jp/users/tihoushi/)から見ることができる。

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