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地方の城下町に自治が息づく 竹屋町に伝わる文書、千葉大教授ら調査 【舞鶴】

地方の城下町に自治が息づく 竹屋町に伝わる文書、千葉大教授ら調査 【舞鶴】

投稿日時:2006年08月08日(火)

芸屋台の見送り幕を調べる菅原さんと市民ら

 西地区の竹屋町に伝わる文書調査に、千葉大学文学部の菅原憲二教授の研究室が8月7日から取り組んでいる。菅原教授はすでに平野屋文書の調査を終えて目録の冊子を発刊した。隣接する竹屋町でも同じく文書調査をして、城下町の町人たちの自治の詳しい内容をさらに明らかにしたいとしている。舞鶴地方史研究会と地元自治会も協力して、同10日まで整理や目録づくりが続けられる。今後3、4年かけて全ての文書を調べ目録を刊行したいとする。  1580年(天生8)、丹後に入国した細川藤孝・忠興親子によって田辺城の築城が始まるとともに、城下町の骨格が出来上がった。京極時代になり、舟門町とサントモ町が一緒になって竹屋町に名称が変わったとされる。  近世都市の運営を研究する菅原教授が2001年~04年、学生らとほぼ未調査だった平野屋町の文書約600点の研究に取り組んだ。同研究会と地元住民も協力し昨年冊子を発刊。続いて竹屋町の近世・近代の文書調査を昨年夏から開始した。  江戸時代、田辺城下の経済の中心地だった竹屋町は海に接していた場所にあり、荷物の荷揚げの港と船問屋の商家が多い地域で、高野川岸には土蔵が並んでいた。竹屋集会所に文書が保管され、市史編纂の際一部が調査されたが、本格的な調査はこれが初めて。昨年は、田辺全体の集会所が1745年(延享2)にいまの芦田医院(北田辺)の近くに建てられたことが確認できた。  前年に続き多数の文書や芸屋台の見送り幕を調べ、宗教や金融などに分類、作成年月日・差出人などの項目で目録を作る。学生10人と同研究会の10人が作業し、地元住民もその様子を見学した。菅原教授は「地方の城下町でこれだけ自治が息づいているのも珍しい。平野屋文書以上の点数があり長いスパンで研究し、成果を市民に利用してもらえる形で残したい」と話す。

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