吉田さん、戦時中の映画教育明らかに 立命館大大学院での研究成果まとめ本出版【舞鶴】
投稿日時:2007年04月03日(火)
戦前、戦時中の舞鶴の小学校での映画を活用した視聴覚教育の実態を調査してきた立命館大学大学院博士課程3回生の吉田ちづゑさん(72)=京都市右京区=が、その研究成果をまとめ、『「講堂映画会」の子どもたち』(桂書房、四六判、305ページ)と題してこのほど出版した。大阪毎日新聞社による全国の学校を巡回した映画会で、戦時中の新舞鶴小と明倫小で、映画教育に熱心だった様子や上映映画の移り変わりなどを明らかにした7年がかりの労作となっている。 主婦だった吉田さんは65歳で同大学文学部史学科に入学した。舞鶴との関わりは、明倫小学校教諭の梅田作次郎さんが1939(昭和14)年から5年間、担任した児童たちが描いた図画との出会いだった。梅田さんが亡くなった後、自宅に保管されていた図画500点が、遺族から教え子の元に返され、教え子たちが図画の展覧会を開いた。 60年前の図画教育と舞鶴を知る資料として、吉田さんは強く引かれ見学し、99年に立命館大学国際平和ミュージアムへ図画寄贈のきっかけを作った。また、その図画を元に学部の卒業論文「軍都舞鶴の児童画」を提出した。 その図画の中に「講堂映画会」と名付けられた絵があり、初めて知った名称から興味を持ち調べ始め、2005年に同大学院文学研究科の修士論文「講堂映画会の子どもたち」としてまとめた。分析しきれなかった不十分な点があり、論文提出後に再調査をする中、桂書房(富山市)から出版の誘いを受け、論文を元に執筆した。 講堂映画会は1928(昭和3)年から、大阪毎日新聞社が教育事業の一環として日本各地の小学校で実施した有料の巡回映画会。43年に文部省によって事業が吸収されるまで、約5500校が会員となった。 しかし、この事業は大毎社史には記録されておらず、吉田さんは明倫小と新舞鶴小の当時の学校日誌や、講堂映画会の機関紙「映画教育」などの資料を集め、映画プログラムなどを発掘した。特に明倫小には5年間通って日誌を筆写した。 本書の1部では、大毎社長だった本山彦一氏の日本精神の復興の教育は児童から行うべきとする信念、映画会が生まれる背景となった当時の日本社会と政治状況、深まる戦争によって変わる映画プログラムなどを紹介した。 2部の「軍港の町舞鶴の映画教育」では、明倫小は「文部省推薦映画を教師の劇場引率による観覧」だった一方、新舞鶴小は「講堂映画会による校内映画会に基本を置いている」と分析した。 映画厳禁だった明倫小が、27(昭和2)年に引率観覧に転じ、41年には丹後映画教育聨盟を結成し、明倫小に本部を置いた。新舞鶴小の映画教育は28年に父兄の映写機の寄付から始まり、その時に京都府内で最初の講堂映画会会員となり、大槻平治郎校長の強い指導があったことを記した。当時日本は不況にあり、中でも軍港舞鶴は軍縮の時代にあって、有料の巡回映画を1地方で実施したのは「異例に属する」と指摘する。 吉田さんは「講堂映画会の府内で唯一の記録である新舞鶴小の日誌が残っていたのは奇跡に近い」とし、いまでは戦前の教育への批判から講堂映画会は忘れ去られているが、「中には外国の児童映画の名作やいまでも十分利用できる佳品が多数ある。映像教育の先駆けとなった面も評価すべき」と話している。 3部に資料編として巡回映画プログラム一覧、明倫小と新舞鶴小の映画観覧記録などを載せている。定価2800円(税別)。
【問い合わせ】電話076・434・4600、桂書房。
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