シリーズ・語り伝えるヒロシマ⑤ いま伝えなければ… 体験語れる最後の世代【舞鶴】
投稿日時:2013年08月30日(金)
広島平和記念資料館でボランティアガイドを務める末岡昇さん(75)=広島市東区=に、資料館を案内してもらった。旅館を営んでいた実家は爆心地から900メートルで、祖父たちを亡くした。当日は五日市に出かけ無事だったが入市被爆した。
「米国政府は原爆の使用は戦争を早期に終結させるためだといまも正当化し、6割の米国人が支持している。多くの外国から来る人たちに、原爆投下について見て考えてほしい」と案内を続けている。一方、「体験者の減少で伝える力が弱くなり、都会の子供たちはうじも知らず、話が通じないこともあります」と気がかりを話す。
6日午前5時半過ぎ、すでに多くの人が集まっていた公園。メディアが取り囲む慰霊碑から離れ、木々の中にある供養塔に行ってみた。身元不明の遺骨が納められているためか観光客はおらず、被爆者や遺族たちの姿が目につく。
広島市内の田中美恵子さん(90)。家屋の下敷きになったが自分と1歳の息子は助かった。「あの悲劇を見ているから、毎年この日にお参りは欠かしたことがない。『助けて』という声を聞きながら、火に追われて逃げるので必死で何もできなかった。言葉で原爆の体験を語れません」
爆心地から2・4キロにいた植松一広さん(81)。建物疎開の作業が休みで家にいて助かったが、町内会の仕事で外出した母が亡くなった。「姉は助かりましたが、いまも体の中にはガラス片が残っています。静かに母を慰めたいと毎年朝早く来ています」 山田達磨さん(77)=愛宕中町=も、父母の名が納められた慰霊碑に向かって手を合わせた。集団疎開でなかったため、広島市内に留まった多くの国民学校の友達を亡くした。生き残ったとの想いも強く、「いいかげんには生きられない」とその後の人生を歩んできた。
今回、被爆体験について初めて取材に応じた。「被爆者も高齢化し、戦争を知らない人も増えている。当時8歳だった私たちが、体験を語れるぎりぎりの世代になってきた。いま伝えなければという気持ちが湧いてきた」
結論を押しつけるつもりはない。「あの戦争で日本は平和のために戦っている、と思い込まされていたのだから」。体験から何かを汲み取り、自分で考えてほしいと問いかける。
奇しくも8月6日が誕生日。そして父の命日でもある。これからも広島に通い続ける。 ※この連載は青木信明が担当しました。今回で終わりです。
写真左=山田さんに説明する末岡さん(左)=平和記念資料館で
写真右=慰霊に訪れた被爆者や子供たち=原爆供養塔前で
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