シリーズ・語り伝えるヒロシマ③ 10年後…父の死確認 原爆語らなかった母、手記残す 自身の被爆体験 話すこと迷い【舞鶴】
投稿日時:2013年08月23日(金)
原爆で行方がわからなくなった父貞之助さん。45歳だった。山田さんは長い間、父がひょっこりと帰ってくるのではと思っていたという。
原爆から10年後。姉が母志満さんの本籍地の福知山市役所へ戸籍謄本を取りに行った時のこと。そこには父が1945年8月6日、広島市内で死亡と書かれていた。亡くなる直前の貞之助さんから、本籍地や名前を聞いた広島西警察署の署長が福知山市役所に伝えていたのだ。署長の名前を調べ、最後の様子を知らせてくれるよう母と姉が手紙を出したが、多くの犠牲者を看取った署長からは父のことを聞きだすことはできなかった。
広島に身寄りのなかった山田さん一家は戦後、母の実家の福知山を経て舞鶴で暮らした。母は父の助手だった人からガラス製造の技術を教わり、ガラス製品を作る仕事のほか、佃煮や酒を売る店も開いた。その日の食べるものもない困窮の生活の中、4人の子供たちを育て上げる。1987(昭和62)年、80歳で亡くなった。
生前、原爆のことを口にしなかった母だが、遺品を整理している時、文箱から母が書いた長い手記が見つかった。早くに父を亡くした子供たちに、原爆前後の父の様子を残そうと、41年10月に書いたものだ。
子煩悩な父と笑いの絶えなかった家族の生活、一方、全てが焼き尽くされた広島の街のつらい記憶にも向き合った。そして「被爆四十年を迎えて」と題した文章には、「四十年が過ぎても八月六日が来れば、やはり悲しい、涙がにじみ出ます。戦争は絶対にいけません」と記す。山田さんがワープロで起こし、冊子にして姉妹たちに配った。
戦後、大きな健康被害も出なかった山田さん。被爆体験を口にしないようにと母から言われていたが、日星高や中学校などで数回、請われて話したことがある。しかし、積極的に語ってきたわけではない。
「原爆投下後、家の下敷きになった子供たちを助けられず、見捨てざるをえなかった人たちや、そうした体験をいまも話せない人が本当の被爆者だと思う。私は被爆者といってもほとんど被害はなかった。話す資格はないと思ってきた」
だが、小さかった我子を広島に連れて行き、自分の時間が持てるようになった約20年前から式典に続けて通うなど、広島の体験は特別なものとして刻まれている。(青木信明)
写真=焼け野原となった広島市の街の写真パネル。左端は原爆ドーム(平和記念資料館で)
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