シリーズ・語り伝えるヒロシマ②父の行方捜し壊滅の街歩く 入市体験 姉妹にも語らず 変わり果てた人 異様なにおい… 地獄のような惨状【舞鶴】
投稿日時:2013年08月20日(火)
8月4日の土曜日、いつもどおり父が疎開先に来た。この時、山田さんが伴われていた。下痢が続いたため一週間ほど前に父が広島市内の自宅に連れ帰り、赤十字病院で診察を受けていた。1日には山田さんは体調がよくなった旨を書き、母に速達の手紙で知らせた。医師の許可が出て疎開先に戻ることができた。「もし医者にもう来なくていいと言われなければ、広島市内で6日を迎えていた」。その手紙はいまも大切にしている。
6日早朝、いつもより早く父は帰ることにした。この日に限って子供たちもみんな起き、生後5カ月の3女が父の首にしがみつき離れようとしない。自転車で市内へ向かう父。最後に見た姿だった。
午前8時15分、爆心地から北北西15キロの戸山国民学校。登校した山田さんたちを大きな爆音と爆風が襲い、教室の窓ガラスも割れた。空が真っ黒になり、焼けた新聞などの紙切れが空から次々と落ちてくる。それらを拾っていると雨が降ってきた。大きな雨粒、ランニングシャツが真っ黒になった。数日後、頭がかゆくなり、手が黒くなるほど髪の毛が抜けた。
7日になると市内から歩いて戻ってくる村人たちもいた。真っ黒に焼けた服、胸だけ、あるいは背中だけ丸裸、そして顔や手足にひどいやけどを負っている。その中に父を捜したがいない。
数日後、母の志満(しま)さんが市内へ何度も父を捜しに出かけるようになった。そこで見た地獄のような惨状。その中を父を求め必死に歩く。爆心地から約1・5キロの大学に向かうと父の名前が書かれた自転車、使っていた茶碗を見つけた。顔にやけどを負ったと聞き、病院や収容所を訪ね歩いた。住友銀行の壁に別の場所に収容された父の名前があった。しかし、その場所に行くが見つからない。
姉と妹を残し山田さんだけ一度、母に連れられ市内に入ったことがある。「便乗したトラックを降りた途端、異様なにおいで何度も吐いた」。手足が焼けただれずるむけになった人、「水を飲ますなー」と叫んで走り回っている兵隊、市電の線路には遺体だけでなく瀕死の人もずらりと並べられ、うじが湧いていた。筵を一枚一枚めくって父を捜した。夜は母と橋の袂で野宿をしたが、河原のあちこちで積み重ねられた遺体が一晩中焼かれ、遺骨が積み上げられていた。
「被爆体験と父を捜しに行ったことを口外しないよう母からきつく言われた」。母と入市したことを姉妹に話せたのは、いまから10年前だった。(青木信明)
写真左=原爆で亡くなった父の貞之助さん
写真右=山田さんが8月1日広島市から疎開先の母へあてた手紙
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