未来へつなぐ記憶 ~舞鶴引揚記念館 24日に開館30周年
投稿日時:2018年04月17日(火)
今月24日、舞鶴引揚記念館は開館30周年を迎える。引き揚げの史実を後世に継承し平和の尊さを発信する拠点として大きな役割を担ってきた同館。節目を間近に控えた14日、98歳になるシベリア抑留体験者が同館を訪れた。
【記憶をつなぐ場所】
広島市在住の富樫政夫さん(98)は、昭和24年10月25日、明優丸で舞鶴港に引き揚げてきた。戦時中は、広島県出身者を中心に組織された陸軍歩兵231連隊に所属していた富樫さん。終戦は中国東北部の新京(現在の長春)で迎えた。その後連れて行かれたのは、シベリア南部の旧チタ州カタダラ村。富樫さんらは炭鉱で働かされ、劣悪な環境の中、4年2ケ月を過ごした。「こんな悲惨なこと、本当は語りたくない」抑留中の出来事について、長く口を閉ざしていた富樫さんだが、平成28年に戦後70年の節目を迎えたころから、家族の求めに応じて体験談を語り始めたという。長女の山村真智子さん(65)と長男の富樫雅司さん(60)は、壮絶な体験談に言葉を失った。寒さや栄養失調、落盤事故などで仲間は次々に命を落とした。帰国が叶わなかった戦友を想い、「せめて骨だけでも」と、亡くなった仲間の手首を切って焼いたが、全てソ連兵に見つかり没収された。日々いとも簡単に命が失われる中、富樫さんは気づいた。「絶対に生きて日本に帰ろう」と互いを鼓舞しあった仲間の中で、弱音を吐いた者が命を失う。「もうだめかもしれない」と話した仲間は、命の灯をつなぎとめることができなかった。「だから、父は弱音を吐かなかった」と雅司さんは言う。前向きに生きることの大切さを教えてくれた父。その父が、これまでになく弱音を吐くようになった。「もう長くはない。死ぬ前にもう一度、舞鶴に行って、一緒に帰れなかった戦友に祈りを捧げたい」この春に長年勤めあげた東広島市市役所を定年退職した雅司さんは、舞鶴への旅を実行に移した。当日は、午前9時頃に自宅のある広島市を出発し、舞鶴に到着したのは午後2時30分。旅先でも病院にかかれるよう準備を整えての来鶴だった。ここしばらくで緑内障が進行し、ほとんど視力のない富樫さんだが、再び降り立った舞鶴の地に感激した様子だった。「もっと長生きして、また舞鶴に来てください」優しく呼びかける山下美晴館長の呼びかけに、富樫さんは笑顔で応えた。
【次世代への継承―オンリーワン施設に】
「生きて帰ってきた我々が、戦争の悲惨さを語り継ぐために形ある物をつくること」―市に届いたシベリア抑留体験者の手紙がきっかけとなり「舞鶴引揚記念館」は昭和63年に開館した。開館当初から、予想以上の人出があり、平成3年ごろになると年間20万人の来館者を迎えた。平成6年には手狭になった展示室の増築やその後には絵画収蔵庫の建設など施設も充実。しかし、時代の経過とともに体験者の高齢化も進み、平成20年ごろになるとピーク時から来館者数は半減する。史実の継承と平和への熱い思いを結集して建設された舞鶴引揚記念館が今後どうあるべきか。平成22年には有識者や体験者等による「引揚記念館あり方検討委員会」を設置し、広く意見を求めた。その結果を受け、提言された施設の市直営化にかじを取り、同館を取り巻く環境は大きく変わり始める。直営後の平成24年には、ユネスコ世界記憶遺産への申請を表明し、まちぐるみの活動が功を奏し平成27年10月には、引揚記念館収蔵資料570点の登録が決定。登録を機に、海外との交流や全国の引揚港との連携も始まっている。また開館当初、約2400点だった収蔵資料は1万6000点に増加。来館者のほとんどは戦争を体験していない世代となった時代に対応する機能強化のための施設整備にも取り組む。平成27年の1期整備には、若い世代にも理解しやすくするため展示室の全面改修などを実施し、6万人台まで減少した年間来館者数も約13万人に増加。また、平成29年度には2期整備として、体験や体感で理解共感を深める抑留生活体験室や約1300点の回想絵画を活用する企画絵画展示室を新設。貴重な資料を後世に継承する収蔵庫も整備するなどし、施設整備は完了した。開館から30年。同館に対する時代の要請は変化し続けている。しかし、確実に言えることはここが他にはない場所であることだ。今回のリニューアルオープンを機に、同館がさらに重要な役割を果たしていくことに期待したい。
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