お彼岸に先祖想う
「匂ヶ崎墓標」で30回目の法要
地域の歴史を知る機会に
投稿日時:2021年09月28日(火)
下安久の匂ヶ崎公園近くにある「匂ヶ崎墓標」で9月23日、30回目となる法要が営まれた。新型コロナ感染拡大防止に配慮し大幅に規模を縮小したものとなったが、節目の法要を終えて関係者らは充実感を漂わせた。
1991年12月、匂ヶ崎公園近くの崖下で土に覆われた四角柱の石碑が見つかった。正面には「南無阿弥陀仏」、側面には1746年にあたる「延亨三丙寅年八月二十九日」「見海寺十世・諦譽順超」などの文字が刻まれていた。
1727(享保12)年に起こった田辺城下の大火で、漁民たちが現在の地に移り住んだのが吉原のはじまり。
しかし、当時の同地は湿地帯だったため疫病が流行。子どもたちを中心に多くの住民が亡くなり、匂ヶ崎付近で荼毘にふされたとの古老からの言い伝えが、現在まで残っていた。墓標の発見はそうした言い伝えを裏付けるもので、犠牲者たちの供養のため石碑を建立したものとみられる。
発見の翌年になる92年に石碑を元通りに再建したのに合わせ、海で亡くなった地域の人たちも一緒に追悼する法要を営んだ。
旧日本軍の大量の武器弾薬を米軍の指揮下で処分するため、終戦直後の45年11月13日、宇治火薬製造所などから運ばれた弾薬類を和田沖の海域で投棄作業をしていたところ、大爆発が起き、艀と曳船が木っ端みじんとなって沈没し、吉原から手伝いにきていた人を含む33人が死亡した。また、出漁して操業中に亡くなった地元の漁業者もいる。55年3月には「三光丸」が、91年12月に「方運丸」の漁船がともに丹後沖で遭難し乗組員らが亡くなっている。
それ以来続いてきた法要には地域の住民や漁業関係者たちが参列し、疫病の犠牲者を悼むとともに、海難事故等で亡くなった人たちを供養することで、地域の歴史をあらためて振り返る機会となっていた。
この日は、見海寺の中島知之住職が読経し、法要世話役の山尾清明さん(73)ら5人が地区住民を代表して手を合わせた。山尾さんは、「私たちは先祖を大切にし、今後もこの法要に継続して取り組みたい」と決意を新たにしていた。
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