いざ次なる夢へ
中舞鶴小出身・田村俊介選手
聖地で歴史的な躍動
プロ球団も注目の逸材 進路に大きな注目集まる
投稿日時:2021年09月03日(金)
コロナ禍で2年ぶりの開催となった夏の甲子園は、台風による相次ぐ順延、近畿勢の4強独占など、記録と記憶に残る大会となった。愛知工業大学名電高(愛知県)の主将として出場した中舞鶴小出身の田村俊介選手(3年)は、初戦敗退となったが鮮やかな本塁打を放ち、鮮烈な印象を残した。
3点差を追いかける展開で迎えた8回、その時はやってきた。
「とにかくチームに流れを引き寄せる打撃をと打席に入った」と田村さん。高めに浮いたチェンジアップをしっかり引きつけて振りぬいた。劣勢のモヤモヤを振り払うような凄まじい打球は、美しい弧を描いて右中間最深部のスタンドに突き刺さった。
目の覚めるような一撃は、高校通算32本目の本塁打。また、夏の選手権大会での1700号というメモリアルアーチとなった。
エースとして先発した試合。県大会で痛めた膝の具合も万全ではなく、制球が乱れて失点した。エースに主砲、そしてチームの主将。多くの役割を担った田村さん。試合後は、ただ「相手チームの方が力があった」と潔く讃えた。
市内出身で甲子園に出場した選手が、これまで成し遂げられなかった「聖地での本塁打」。
試合をテレビで観戦した市内在住の70代男性は「いろいろと不安なことばかりの日々ですが、田村君のホームランには本当に勇気づけられた」と笑顔をあふれさせた。
1試合に終わった大会ではあったが、投打に輝きを放った田村さん。その今後に、早くも期待が集まっている。
【地元の神童は甲子園の星に】
田村さんが野球を始めたのは幼稚園に通う頃。すぐにその魅力に取りつかれ、次第に才能を開花させていった。
父の俊之さん(54)に連れられ、幼い頃から何度もプロ野球観戦に甲子園を訪れた。俊之さんは「いつか、ここでやりたいやろ。頑張ってやればいつか願いはかなうで」とよく話したという。
2014年には、学童軟式野球の西日本大会で準優勝。当時、5年生だった田村さんの打球がフェンスを越えると聞いた多々見市長が、ネットの新調を決断。中舞鶴小グラウンドに張られた高さ12メートルのネットは、以降は「田村ネット」と呼ばれるようになった。
小学6年生で身長172センチ体重70キロの神童は、より高い競争の場を求め、高知県の名門・明徳義塾中を経て、愛工大名電へ。野球エリートが集まる環境の中で、主将を任されるまでに成長した。
当初、中学から越境することに消極的だった家族をよそに田村さんの想いは強く、「辛かったら帰ってきてもいいんだと何度も言った」という俊之さんだったが、答えはいつも「帰らない。野球が楽しい」の一点張りだったという。
【チームを鼓舞し辿り着いた夢舞台】
コロナ禍で大会自体がなくなった昨年。新チームの主将に任命された田村さんだったが、秋の県大会は2回戦で敗退。先輩の分まで自分たちが頑張るという気持ちばかりが空回りし、勝てるはずの試合を落としたチームはどん底の状態に。
しかし、敗戦をきっかけにチームは生まれ変わっていく。田村さんはチーム内での対話を重ね、次第に絆は強まった。悔しかった思い、ふがいなさを冬のトレーニングにぶつけるとともに、チームで共有したのは「目前の相手に全力でぶつかる」こと。先は考えず、相手がどうであれ全力を尽くす。
そして迎えた夏の予選。179校が出場と、全国の激戦区である愛知県大会を勝ち抜いた。
幼いころからの夢を成し遂げた田村さんは「幼いころ、甲子園は遠い夢だった。だけど、高校になると、それは現実的な目標に変わった」と振り返り、後に続く子どもたちには「ただ夢見るんじゃなく、絶対に行くんだという強い気持ちで取り組んでほしい」と呼びかけた。
夢を叶えた地元の星は、次なる夢へと歩み始めた。まだ見ぬその道程を、大きな期待を抱いて見守りたい。
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