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人の繋がりが「生」照らす<br>学童疎開の教師と児童<br>76年ぶりの再会 <br>由良川洪水からの大脱出<br>気力でつないだ命の灯

人の繋がりが「生」照らす
学童疎開の教師と児童
76年ぶりの再会 
由良川洪水からの大脱出
気力でつないだ命の灯

投稿日時:2021年08月10日(火)

 戦後76年の今年、いまだ世間はコロナ禍に席巻されており、戦争犠牲者を追悼する行事なども規模の縮小を余儀なくされている。そんな中でも、薄れゆく戦時の記憶を次代に引き継ごうと、多くの人たちが手を携え様々な活動に取り組んでいる。

 「戦争・空襲メッセージ編さん委員会」が2014年に作成した紙芝居は、今も精力的な活動が続けられる事業の一つだ。「76年前の学童疎開 子どもたちの生活と由良川の大洪水からの脱出」と題した紙芝居は、当時新米教師として学童疎開の引率に当たった荒木花子さん(96)の手記をもとに、脚本を山口妙子さん(92)・野垣幸子さん(75)、絵を余江美穂子さん(76)が手がけた。
 7月には、西方寺の大庄屋上野家で企画展が開催され、実話をもとにした物語の登場人物である元児童の4人が来場し、往時を懐かしんだ。
 終戦後もなかなか家へ帰れず、心細い気持ちでの生活が続く子どもたちを襲った由良川大洪水。生死の境をさまよった日の出来事を、当時6年生だった矢原千鶴子さん(88)内山美沙緒さん(87)・4年生だった安田邦子さん(85)・3年生だった壷内正治さん(85)の4人は思い返し、世話になった荒木先生への想いをそれぞれ口にした。
 本紙では、その時の模様を7月13日に掲載。旧交を温めあう4人が、荒木先生への想いを募らせる心情を記事にした。記事掲載号発刊の翌日、一本の電話が本紙編集部に入った。荒木花子さんと25年来の交友があるという電話の主は、楠田敦子さん(76)=宮津市=。
 「76年ぶりの再会」の物語は、まさにそこから始まった。

 【想う力で 再会が実現】
 長年やりとりが続くいつもの便りの中に、気がかりな言葉が並んだ。「いよいよ悲しい時が来ました」まるで永遠の別れを示唆するかのように、力なく記された荒木さんからのハガキ。楠田さんが本紙記事を目にしたのは、丁度そんな時のことだ。
 二人の出会いは今から25年前。入院する夫の付き添いで訪れた病院で、偶然にも荒木さんと一緒になったことが始まりだった。
 いつも病院で目にしたのは、壁に手をつきながら何度も歩く練習をし、リハビリに励む荒木さんの姿。「まさに気力と努力の人」という印象を抱いた楠田さんは、日を追うごとに荒木さんに惹かれ、親交を深めていった。
 「とにかく荒木さんは、いつでも前向きで頭脳明晰な人」と楠田さん。しかし近年、養護施設に入った荒木さんは、次第に元気をなくすようになった。
 これまでの荒木さんらしくない弱気な便りに心配が募り、心を痛めていたという楠田さん。
 「当時の教え子さんに連絡がとれませんか」こうして本紙編集部へと受話器を取ったのだ。
 かつての気力あふれる荒木さんを知るからこそ「何とかまた元気になってもらいたい」という楠田さんの強い思いは通じ、再会が実現することになった。
 【時を経てなお 教師と教え子】
 7月17日、西方寺の大庄屋上野家には多くの人が集まっていた。中には、荒木さんの教え子に加え楠田さんの姿も。
 そんな中、息子の博茂さん(64)に付き添われて車いすに乗った荒木さんが登場すると、会場は大きな拍手に包まれた。
 紙芝居を見終わった荒木さんは当時を振り返り、「一人でも死なせていたら自分も死んで浄土にいこうと決めていた」と凛とした口調で話した。
 そんな様子を見守った博茂さんは「老人ホームに入って2年。老化が進んで目に見えて弱っているので心配していたが、今日は力を振り絞って頑張ってくれた」と話し、「農家に嫁いで、結核を患う父の看病、義父母の世話、男二人の兄弟の世話と、大変な日々だったと思う。今回はじめて洪水の話を聞いたが、こういう母だからこそ、厳しい人生を生き抜いてこられたんだと改めて感じた」と母への思いを口にした。
 教え子と再会した荒木さんが昔話に花を咲かせる光景を、離れたところから見守っていた楠田さんは「今日の姿を見ていると、あんな消極的な手紙の主と同一人物とは思えない。気力の力を見せつけられて、荒木さんには学ぶところばかりです」と目頭を押さえていた。
 いつの時代も、どんな環境にあろうとも、人を支えられるのは人でしかない。
 「76年ぶりの再会」に、人のぬくもりの大切さを改めて感じた。

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