NO.93 舞鶴築港記念碑(松陰) 【舞鶴の名所旧跡】
投稿日時:2022年02月14日(月)
日本で初めて海を測量した伊藤吉(としよし)の出身地である宮津口から、幕末の学者、野田笛浦(てきほ)が「笛が浦」と名乗った西港へ。島崎公園の入口には、高さ4メートル、周囲3メートルもの巨大な石碑が1基。見上げると「舞鶴築港記念碑」とあり、裏には初代市長柳田秀一氏の記すその由来が。舞鶴港は逆Y字型、周囲の山々に囲まれ堤防は不要。水深14メートル~27メートル、潮流干満差は僅か1メートル。屈指の良港である。この条件に旧海軍は明治22年、東港を軍港に。そのとき西港は商港としての道を選んだ。が、港を機能する修築が不可欠であった。その1期工事は5年事業とし、大正2年に第1次埠頭3000トン級岸壁2バースが完成。その後、貨物量が増加。当時の水島町長は、町の発展は舞鶴港にありと運動を展開し、昭和3年2期工事が決定したときには、町を挙げて“万歳”を三唱した。工事は国と直轄。9年間の歳月を経て昭和13年3月、大型船同時接岸の第2埠頭が完成した。竣工式で川北町長は冒頭「私が今申シ述ベマスル事ハ祝辞ト言ハンヨリハ寧ロ感謝ノ辞デアリ歓喜ノ辞デアリマス」と述べ、竣工歌を唄って町が湧いたという。こうした一連の修築の記録「舞鶴築港記念碑」は昭和24年4月、西公会堂に建立され、その後この地に移されたものである。以来、西港は第3、4、喜多埠頭を増設し、東西港が重要港湾に。現在、年間取扱貨物量約8300トンの内・外貿易拠点港として発展中である。されどこの碑には、幾多の先人たちの舞鶴の発展に夢をかけた執念の変遷が、深く刻まれている。
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