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舞鶴空襲から64年、亡き旧友らの冥福と平和祈る 毎年7月29日に橋本さん(京都市 )が共楽公園山頂の鎮魂碑へ【舞鶴】

舞鶴空襲から64年、亡き旧友らの冥福と平和祈る 毎年7月29日に橋本さん(京都市 )が共楽公園山頂の鎮魂碑へ【舞鶴】

投稿日時:2009年07月31日(金)

鎮魂碑にろうそくの火を灯し亡き友らに語りかける橋本さん

 多くの犠牲者を出した1945年7月29日と30日の舞鶴空襲から64年。犠牲者らを悼む慰霊祭が初めて営まれた77年から毎年7月29日に、現場近くの共楽公園山頂の鎮魂碑を訪れる女性がいる。京都市左京区の橋本時代(ときよ)さん(80)。自らも空襲で両目を失明し、左耳がほぼ聞こえない大けがを負った。今夏も亡くなった旧友らの冥福と平和を祈った。29日午前8時半ごろ、米軍機が500キロ爆弾1個を舞鶴海軍工厰に投下、学徒動員の生徒ら97人が死亡し100数人の重軽傷者を出した。30日も米軍機の爆撃と機銃掃射で、舞鶴湾内に停泊中の艦船の大半が沈められ、約80人が亡くなったというが、いまだに正確な犠牲者数は不明のままだ。被災者や遺族らが77年、余部上の雲門寺で合同慰霊祭を初めて営み、翌年多くの募金で共楽公園山頂に鎮魂碑を建立。毎年多くの関係者が鎮魂碑を訪れ、同寺で法要を営んできた。洛北実務女学校の生徒だった橋本さん(当時16歳)は、工厰造兵部で人間魚雷の部品を磨く作業中、工場前の山に爆弾が落ち、一瞬の内に目の前が血の色に染まり気を失った。コールタールで全身真っ黒になり、死体置場に並べられたが足が動いたのに気がついた人によって救助された。爆風で吹き飛ぶガラス片が全身に突き刺さり失明した。「ガラス片をピンセットで取るときは生き地獄だった」。いまもガラス片は体に残っている。右耳も補聴器を付けなければ聞こえない。作業に使っていたやすりを左手に握ったまま倒れ、人指し指にはその傷痕がはっきりと残る。友人7人を含む同級生44人が亡くなり、自宅で毎朝、水を供えて旧友らの名前を呼び「平和を守って」と声をかける。50回忌を境に慰霊に訪れる人が少なくなったが、工厰技手で被災者の勝部隆三さんの案内で慰霊を続けた。勝部さんは2004年97歳で亡くなったが、長女の玉林悦子さん=白浜台=と3女の鈴木孝子さん=余部上=らが橋本さんの手助けをする。姪に付き添われた橋本さんは鎮魂碑の前で、「また今年も来たよ」と手を合わせ、雲門寺で同じく被災者二人も参列し法要が営まれた。橋本さんは「足が痛くなり止めようかと思うこともありますが、みんなが待っているような気がして。悲しい犠牲者を再び出さないため、平和を守らなければ」と祈った。玉林さんは「いまもお寺で法要を続けていることを知らない被災者もいらっしゃいます。空襲を伝えるためにも慰霊の灯を守っていきたい」と話す。

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