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浮島丸事件追悼に力を尽くし ソフトテニス振興も、野田幹夫さん逝く【舞鶴】

浮島丸事件追悼に力を尽くし ソフトテニス振興も、野田幹夫さん逝く【舞鶴】

投稿日時:2005年11月18日(金)

今年8月24日の浮島丸事件追悼集会参加者との交流会で笑顔をみせる故野田幹夫さん

 携帯電話の着信音が鳴る。「全国大会の出場が決まったよ。子供たちよーがんばったよ。写真撮りにきてもらえんか」。耳元から聞き慣れたしわがれ声が届く。小中学生のソフトテニスクラブ「舞鶴ひまわりクラブ」代表の野田さんからの電話だ。子供たちへの応援で声を嗄らしていた。同クラブは高校や大学の全国大会で活躍する選手を輩出する。その全ての選手が野田さんの叱咤激励を受けてきた子供たちばかりだ。クラブ設立に関わった故加藤為吉さんとともに舞鶴のソフトテニスの振興に力を尽くした。元青葉中学校校長の野田さんが、スポーツとともに教員時代から取り組んだのが、浮島事件の犠牲者の追悼である。日本人生徒による在日韓国・朝鮮人の生徒らに対する差別問題に直面したのを契機に、日本と朝鮮半島の歴史を学び、終戦直後に舞鶴湾で起き、朝鮮人らが犠牲になった浮島丸事件を知る。追悼の碑の建立のため募金集めに奔走した。犠牲者らの苦しみを表現した碑は78年に完成。当初の構想では抽象的なモニュメントだったが、野田さんが「お墓を作るんじゃないんだ」と一喝した。長らく須永安朗さんとほぼ2人で追悼集会を仕切り、2人が顔を揃えると「浮島丸のことですね」と市民に浸透するまでになった。50年目。事件を題材とした映画「エイジアン・ブルー」が完成し、集会への参加者が増える。韓国や中国でも上映が実現し、韓国市民とも交流が始まる。戦後60年の今年は韓国・中国の研究者を招いてのシンポジウム、駐大阪韓国総領事から感謝状が贈られた。浮島丸殉難者を追悼する会会長として、その任を全うして歩んだ。  最後まで気さくな笑顔と追悼にかける思いは尽きなかった。面倒みのよさと自分を語らない人柄が多くの人の記憶に残っている。ソフトテニスと追悼のバトンを野田さんは渡した。心からご冥福をお祈りします。野田幹夫さんは11月6日、死去した。78歳。

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