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引揚援護局の元医師や看護婦ら 戦争と引き揚げの歴史語り継ぎたい【舞鶴のニュース】

引揚援護局の元医師や看護婦ら 戦争と引き揚げの歴史語り継ぎたい【舞鶴のニュース】

投稿日時:2002年08月16日(金)

戦後間もないころ引揚船「高砂丸」に乗船した看護婦ら(西港)

 終戦後の昭和20年10月から同33年9月まで、舞鶴港は中国や旧ソ連から66万人の引き揚げ者と約1万6000柱の遺骨を迎えた。引き揚げ者の受け入れのため、平に厚生省の引揚援護局検疫所が設置された。勤務した医師や看護婦らの37人が今年7月、約半世紀ぶりに各地からやってきて舞鶴で再会を果たした。出席者から当時の様子を撮影した写真を寄せてもらい、看護婦から見た引き揚げを語ってもらった。
 京都や千葉、富山などの看護婦が日本赤十字社から派遣され、同20年~同27年、援護局検疫所に勤務。入港した船に乗り込み、船内の衛生状況のチェック、引き揚げ者への予防接種、荷物の消毒などの業務をした。藤本チヨさん(77)=大阪市=の呼びかけで、7月に集まった。
 室田節子さん(72)=鹿児島県入来町=は同23年~同25年、ナホトカに向かう引揚船「高砂丸」に乗船するなどした。長い北桟橋で引き揚げ者を出迎えたが、橋を歩く軍靴の音で「お帰りなさい」という声がかき消された。夏になると、赤痢にかかった患者が粗末なベッドに横たわっていたのを思い出す。
 「無言で無表情で帰国した人々の面影が、今でも痛く私のまぶたに焼きつき、忘れることができません。50年ぶりに舞鶴を訪れましたが戦争をしてはいけないという気持ちを新たにしました」という。
 滋賀県信楽町の岡村ヤエ子さん(74)は同20年から3年間勤務した。引き揚げ者が入所した上安寮では、中国で親を亡くし、はぐれた子供たちが帰国したものの、その場で置き去りにされているのをよく見かけた。そうした子供たちは森寮に送られ、休みのたびに行って歌や折り紙を教えた。「子供たちも喜んで待っていてくれた。いまどうしているのかと1日も忘れたことがない」
 引揚桟橋では担架を持って待機していた。桟橋に着いた人たちが歓迎する人からもらった鉛筆を海に捨てていた。「だれがこんな苦労をさせたのか」。吐き捨てるような言葉が耳に残っている。帰国しても故郷の家族が亡くなった知らせを受け、援護局内で首をつって自殺した引き揚げ者も何人もいた。
 元看護婦たちは「戦争と引き揚げの歴史を語り継ぐ時間は残り少ない。いま私たちにできることをしよう。そしてまた舞鶴で再会したい」と話し合っている。

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