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反戦訴え 四半世紀

反戦訴え 四半世紀

投稿日時:2019年08月06日(火)

 きょうで広島に原爆が投下され74年が経ち、8月15日には令和最初の終戦の日を迎える。「戦争という過ちを二度と繰り返さない」との強い反省に立ち、日本は戦後を歩んできた。当時を知る世代が減少するなかで、戦争体験を語り継ぎ、平和の尊さを継承しようと、多くの市民が取り組んでいる。

 「第25回平和のための舞鶴の戦争展」(同実行委員会主催)が27日から3日にわたって、市政記念館ホール=北吸=で開かれた。初日の27日には、元日星高校教諭の山田達磨[たつま]さん(83)から、広島での被爆体験を聴く講演会があり、100人近い聴衆が会場に詰めかけた。山田さんは広島市内から10㌔離れた疎開先の国民学校で被爆。当時の事については、70年間にわたって固く口を閉ざしてきた。「生き残った心苦しさがそうさせた」と話す山田さんだが、最近になって体験を語り継ぐ使命感を感じ始めたという。この日も山田さんは、広島市内で母と共に父を探した体験を語った。原爆投下の2日後、9歳の山田さんは、母に連れられて広島市内に入った。2日間にわたって燃え続けた市内では何もかもが破壊され、これまで街からは見えなかった遠くの山並みがはっきり見えるほどだったという。市電の線路に沿って並べられ、ムシロをかけられた遺体を、「父ではないはずだ」と自分に言い聞かせながら、ひとつずつ確認した。線路が続く限り並べられたムシロはおびただしい数だった。「母は私に、父がもうダメだということを分からせたかったのだろう」と山田さんは当時を振り返った。そんな必死の捜索も空しく山田さんの父は長らく生死不明だったが、後になって死亡届が出されていることが分かった。当時世話になった警官が代わりに出していた。最後の様子が知りたくて、その警官に訊ねたが、「当時、あまりにもたくさんの人を相手にしたので、まったく憶えていない」と丁寧な言葉で書かれた手紙でお詫びをされたという。愛する家族を一瞬にして奪う戦争は、二度と繰り返してはいけない。生々しい体験談からは、その言葉の端々に強い思いがにじみ出ていた。「私はいつまでも『戦後』のままであってほしい」と山田さんは締めくくった。戦争展では他に、児童を対象とした戦時食試食、絵本・まんがコーナーなども準備し、読み聞かせや紙芝居も実施。様々な方法で再び日本が戦争に向かうことのないよう訴えていた。

【舞鶴空襲学徒犠牲者慰霊祭 厳かに】

 舞鶴空襲で犠牲になった勤労要員学徒と教師を追悼する「舞鶴空襲学徒犠牲者慰霊祭」が7月29日、余部上の共楽公園であった。「舞鶴空襲」は、昭和20年7月29日、米軍が模擬爆弾の5トン爆弾を舞鶴海軍工廠に投下、97人が亡くなり、30日には艦載機による攻撃で京都師範学校などの学徒、教師20人を含む83人が犠牲となった。慰霊祭は、碑が建立された平成26年から毎年7月29日に、慰霊碑管理委員会が開いている。昨年は、猛暑のため熱中症などに配慮し中止に。同委員会の役員のみでお参りした。舞鶴空襲から74年を迎えたこの日、遺族や犠牲者の学友、元動員など35人が参列した。遺族・学友の言葉では佐々満郎さん(90)=京都市=、安藤茂さん(79)=神戸市=、中西通夫さん(61)=京都市=が追悼の言葉を述べた。当時16歳だった佐々さんは、7月に京都師範学校に入学した直後に舞鶴海軍工廠に動員。魚雷の組み立てに従事していた。空襲に合った日、同じ工場で働く旧友や他校男子生徒が爆撃で多くの死傷者が出た。「防空壕から出た時、ショック熱からか水道管から出ていた水をがぶ飲みした。その横では、ムシロに置かれた真っ黒な遺体の列があった」と当時の生々しい様子を語り、「あの残酷な戦争の現実は、年が経つにつれ薄れてきているように思います。私たちは、御霊の前で命の続く限り平和の尊さを後世に語り続けていくことを誓います」と反戦の誓いを述べた。その後、雲門寺住職の堀尾大直和尚の読経のもと、参列者は献花、焼香し手を合わせた。閉会のあいさつでは、同委員会の内藤昇さん(91)が「友らの無念を一人でも多くの方にと思ってやってきたが、90を越え引き継ぎの時ではないかと話している。どうか慰霊を続け、彼らのような犠牲者を出さない、どんな戦争にも加わらない日本にしてください」と声を震わせ平和の尊さを願っていた。出席者たちはその後、赤れんが2号棟の市政記念館で開催していた「戦争展」にも訪れていた。

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