響け  鎮魂の調べ~阪神淡路大震災から25年

響け 鎮魂の調べ~阪神淡路大震災から25年

投稿日時:2020年1月31日

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思いをしたためた竹灯籠を手にする山本さん
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幻想的に浮かび上がった竹灯籠の灯り

 1995年(平成7年)1月17日に発生した阪神・淡路大震災。兵庫県を中心に甚大な被害をもたらした大災害の発生から、17日で25年目の節目を迎えた。同日、神戸市中央区東遊園地で開かれた「阪神・淡路大震災1.17のつどい」には全国各地から約5000本の竹灯籠が集められ、当地から寄せられた竹にも追悼の明かりが灯された。



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 「ふと近づいた場所に、自分で字を入れた灯籠があった」と山本敏愛(55)さんは、奇跡の瞬間を振り返った。公園を埋め尽くした竹の灯籠は、「1.17」や「きざむ」という文字の形に並べられていて、到底自分のものを見つけられるとは思ってもいなかったという。
 「生かされた命を精一杯輝かさなければならないと改めて強く思った」と山本さんは凛とした表情で前を向いた。
 山本さんの生まれは神戸市長田区。父の仕事の関係で、大阪市内や明石など、関西地区を移り住みながら成長した。
 思春期を迎えた頃から相撲観戦の楽しさに目覚め、大阪での会社員時代には職場近くの相撲部屋で朝稽古を見学してから出社するほど夢中になった。
 相撲甚句に出会ったのはこの頃だ。ある日、体に電流が走るような感動を覚えたその出会いが契機となり、前夫と知り合い結婚した。
 夫婦で営むちゃんこ店で、山本さんは震災に遭遇した。
 結婚してほどなく構えた新居近くの店舗。震災前日、前夫が発熱し帰宅をあきらめたことが命の分かれ目だった。新居は全壊の被害を受けたが、二人は無事だった。
 「当時はその日生きるのに必死だったが、時が経つにつれて奇跡を痛感します。だからこそ、亡くなった方々の分まで必死で頑張らないといけないと思う」と山本さんは言葉に力を込めた。



【竹がつなぐ 人々の思い】



 節目の「つどい」に向けて、市内からはおよそ350本の竹灯籠が送られた。竹集めには、舞鶴竹林整備・竹活用ネットワーク協議会が活躍。市内には約1300ヘクタールと府内で最大の竹林面積があるが、山の持ち主の高齢化などで手入れがされず里山まで拡大している。同協議会は、こうした放置竹を整備しようと、森林組合や行政などが連携して2014年に設立された。
 「当地から切り出した竹が人々の心をつなぐシンボルとなる。こんなに喜ばしいことはない」と関係者たちは満足感を漂わせた。
 同協議会のメンバーたちを中心に作業は進められ、規格に沿った形に整えられて市内有志らが字を入れた。文字入れに参加した人たちの中には高校生なども多く、「震災を知らない世代」が思いを寄せる機会にもなった。



【鎮魂を経て 生への勇気を伝道】



 節目の日を終えた神戸の地で19日、山本さんは太鼓演奏の舞台に立った。
 「神戸国際taiko音楽祭」。著名なプロの演奏家である木村優一さんと共に、被災者を勇気づけるために作られた楽曲「大地」を、100人で演奏するというかつてない取り組みだ。
 高校生の頃に和太鼓演奏を始めた木村さんは、在学中に被災。避難場所となっていた校庭などで演奏していたある日、一人の男性に激しく演奏の中止を求められた。太鼓の響きが地震を思い起こさせるという理由だった。太鼓演奏に込めた思いを粘り強く伝えた木村さんは、最後にはその男性と心を通わせる。
 以来、太鼓を通じて人々に勇気を伝える活動を続けた木村さんが、震災25年の節目に考えた取り組みが「100人の太鼓」だった。
 公募を知った山本さんはすぐに応募し、採用された。
 2003年に舞鶴に来てから始めた和太鼓。震災後に過ごした日々は、いつの間にか舞鶴の方が長くなった。その間には、前夫との死別や自身の乳がん発症など様々な人生の谷間に沈んだ。
 そんな時、いつも支えになったのは家族で結成した「家族太鼓山本家」だった。
 家族で打ち鳴らした太鼓の音色は、いつでもネガティブな感情を霧散させた。
 「今、改めて思うのは関わった人たちへの感謝。人とのつながりで震災や苦難を乗り越えることが出来た。私も、太鼓演奏を通じて勇気を与えられるよう頑張りたい」と山本さん。
 やり遂げた充実感の漂うその瞳の中に、節目の演奏を終えて今なお輝く希望の光を見た。今後より一層の活躍を期待したい。