舞鶴出身の落語家「笑福亭飛梅」見参

投稿日時:2017年4月7日

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勘当同然で舞鶴を飛び出した若者が、落語家となって舞鶴に帰ってきた
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当時を振り返りながら、落語家への道のりを語る飛梅氏

 12年前、勘当同然に舞鶴を飛び出した若者が、落語家となって帰ってきた。「笑福亭飛梅」こと、橋本天童さん(36)。
 落語家の道を進む中で、生まれ故郷の舞鶴に恩返しをと思うようになった。その思いは「ちゃった落語会」という形になり、今年で第3回目を迎える。

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 橋本さんは昭和56年、中舞鶴で生まれた。
 「周りがやんちゃな奴ばかりでね。自分も自然と・・」と当時を振り返る。
 高校は福知山商業高校(現福知山成美)へと進学した。周りに流されて悪さばかりしていた。半年の内に3回の停学が重なり中退。
 「その後はとび職とか、設備会社を転々としました」。まだ15歳だった。年が経つにつれ、周囲と比較してしまう自分がいた。
 後輩には、大阪へ出て人気DJになっている者もいた。スターの様な姿に憧れと焦りを感じた。強烈な都会への憧れ。しかし憧れが増すにつれ、仕事に身が入らなくなった。
 そして、24歳の時。
 母・和子さんは、仕事が続かず、いつまでも甘えている息子に腹が立ち、自然と喧嘩になった。
 「出ていけ!」
 その言葉で弾けた。
 すぐに家を飛び出した。目には大阪への憧れしか写っていなかった。
 「いつもは3ヵ月くらいで帰ってくるのに、帰ってこなかった。おかしいなと思いました」と和子さんは語る。怒りは不安へ、不安は心配へ、ついに警察へ捜索願いを出す。
 一方、橋本さんは大阪でとび職として生活していた。
 ある夏の日。パチンコ屋でほとんどスってしまい、中華料理屋で腹を満たした。まだ小銭がポケットにあった。横にある古本屋へふらりと入ると、2冊の本が目に止まる。
 笑福亭仁鶴著 750円。
 笑福亭松枝著 250円。
 250円の松枝著の方を手に取って購入した。落語家の師匠の弟子たちのドタバタ劇を綴った本。この出会いが運命を変える。
 「これがすごく面白くて。落語家ってこんな面白い人がいるんやなって」
 平成20年。27歳の時に笑福亭松枝師匠に弟子入りした。
 師匠には自分は孤児だと嘘を付いた。飛び出した手前、バツが悪かった。でも、やる気は本物だった。
 「もともと喋るのは得意。楽勝やと思っていました」
 しかし修行は創造以上に辛かった。まず、イントネーションで躓いた。落語は船場言葉。なまりを直すのに半年かかった。また、師匠が喋った噺を、弟子が一言一句同じように喋る三編稽古に驚いた。稽古中はメモも禁止。何度もあきらめようと思ったという。
 「でも、ネタの一つも覚えないうちには辞めれない」と稽古に耐えた。
 2年後の正月。大阪千日前のホールで、初の舞台があった。
 そこに母・和子さんと妹の姿があった。
 5年目の再会だった。
 橋本さんは、松竹所属時からインターネットに顔が出ていた。それを発見したのだ。
 5年ぶりの挨拶もさながら、師匠にあわせなさいと言った。
(一言師匠から連絡があってもいいのでは・・・)
 和子さんからすれば、そう思って当然であった。
 松枝師匠は和子さんに挨拶をすると、橋本さんに、母親は亡くなっていると言っなかったか?と聞いた。
 「・・・生き返りました」
と答え、謝罪したという。
 その後、師匠の計らいもあり、母と子は和解した。
 そして今、改めて舞鶴の地を踏みしめる。
 心に自然と、生まれ故郷への恩を感じた。
 「自分が出来るのは落語、舞鶴にできることはこれしかない」
 2年前、母・和子さんの助けを借り「ちゃった落語会」を開いた。仲違いしていた母と子が、協力して大きなことをやり遂げた。かつての悪ガキが、故郷に責任を感じるまでになった。
 「いつかは(笑福亭)鶴瓶さんや(桂)春団治さんを超えるような有名な落語家になりたい。その時は舞鶴で落語がしたい」と目を輝かせる。
 最後に「みなさん“ちゃった落語会”で会いましょう」と笑顔で語った。
 
 〈「飛梅」命名由来〉
 松枝師匠は、その師匠である松鶴師匠から「梅鶴」の名前をもらっている。なので「梅」の文字が使えるそうだ。そして元々飛び職であったことが理由の1つであるという。
 また、橋本さんが弟子入りしてから数日後に、松枝師匠は大宰府天満宮を訪れた。菅原道真公の飛梅伝説由来の梅の木を見て決めたという。
 
(井上 務)