舞鶴空襲から75年~学徒犠牲者慰霊祭しめやかに

投稿日時:2020年8月11日

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慰霊碑に向かい祈りを捧げる女性

 新型コロナウイルスが猛威を振るうこの夏、我が国は戦後75年の節目を迎える。戦争体験者が次第に少なくなっていく中、7月29日に共楽公園で、2020年舞鶴空襲学徒犠牲者慰霊祭が実施された。



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 慰霊祭が行われた共楽公園からは、爆心地の旧舞鶴海軍工廠を見下ろすことが出来る。
この場所に建つ追悼慰霊碑は、6年前のこの日に除幕された。碑は遺族や元学徒、市民らから、「あの日のことを忘れません」「二度と戦争を繰り返してはならない」などという想いとともに集められた692万円の募金で建立された。
 1945年7月29日、京都市にある洛北実務女学校の生徒だった橋本時代さんは、工廠での作業中に爆撃を受け、失明する大けがを負った。その日に米軍が投下した模擬原爆では97人が犠牲になり、翌30日には艦載機による攻撃で83人が命を落とした。死亡した人の中には友人も多く含まれていたことから、橋本さんは戦後、旧友たちを慰霊しようと毎年共楽公園を訪れたという。
 生前、片時も忘れることのなかった慰霊の想い。84歳の生涯に幕を閉じる前に、橋本さんは記念碑建立への想いと寄付金を託した。
 その後結成された記念碑建立委員会には、橋本さんの遺志に応える人の想いが次々と集まった。賛同した334人からは、「私たち仲間の青春を奪った戦争を許すことはできない」など、寄付金と共に多くのメッセージが寄せられた。
 舞鶴空襲学徒犠牲者慰霊碑管理委員会の瀬野研三委員長は、「戦争することが生活だった時代の人たちが確実に少なくなり、戦争の記憶を語り続けることが私どもの大きな責務となりました」と挨拶した。



【惨状の記憶 語り継ぐことが平和につながる】



 空襲当日は日曜日だったが、1万人以上が工廠で働いていた。
 「午前8時半ごろ、工場前の山に1発の爆弾が落ち、一瞬の内に目の前が血の色に染まり気を失った。コールタールで全身真っ黒になり、遺体置き場に並べられたが足が動いたのに気がついた人によって救助された」と生前に橋本さんは、空襲の日を述懐した。この時の惨状については、同女学校の元生徒でつくる洛友会が出版した体験記『失われた青春』に詳しく綴られる。「私たちはともかく防空壕へと走りました。ふと足元を見ると、死体の上に乗っていました。あたりには爆風で顔をえぐられた人、全裸の人たちが横たわっていました」
 戦後、舞鶴は平和の港へと姿を変えたが、75年の間に、「血塗られた記憶」が風化していったことは否めない。
 瀬野さんは、「この慰霊祭の実施と慰霊碑の建立は、舞鶴空襲のことすら知らない、戦争を知らない世代に、体験者の記憶を語る場を提供し、軍港舞鶴の歴史が語られ、舞鶴の現代史に市民の深い思いを刻むことに繋がる」と述べた。
 平和を希求する気持ちは、対極の惨状を知ることでより強くなっていく。歴史を直視し、発信し続けること。これが、戦争の歴史の上に立つ私たち舞鶴市民の使命なのかもしれない。