浮島丸事件 下北からの報告 ⑦紙芝居づくり  「私たちの悲しみ無駄にしないで」 碑に向き合い声きく 下北で犠牲者の想いに触れて【舞鶴】

浮島丸事件 下北からの報告 ⑦紙芝居づくり 「私たちの悲しみ無駄にしないで」 碑に向き合い声きく 下北で犠牲者の想いに触れて【舞鶴】

投稿日時:2011年10月14日

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写真左=下北で強烈な印象が残った、むつ市の釜臥山を余江さんがスケッチした絵
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写真中=紙芝居を制作した余江さん
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写真右=爆沈した「浮島丸」から投げ出された人を佐波賀の村人が救助する紙芝居の場面

浮島丸事件の真相究明と語り継ぐ活動を続ける下北に対して、事件の犠牲者の追悼事業を中心に取り組む舞鶴の「浮島丸殉難者を追悼する会」。その事業に新たに事件を紙芝居で伝える活動が加わった。下北の市民たちに負けないぐらい、力強い想いが紙芝居の絵に込められている。  追悼する会会員で紙芝居の制作者、余江美穂子さん(67)=白浜台=は2009年10月5日、むつ市にいた。犠牲となった朝鮮人労働者たちの強制労働の現場を取材するためだ。下北の地に降り立ち最初に目に入った風景が、下北半島の霊峰、釜臥山(標高879メートル)だった。  日本へ連行された朝鮮人たちが下関から列車で下北へ到着し、仰ぎ見たであろう釜臥山に、「ふるさと朝鮮の山を思い出した人がいるかもしれない」と、強烈な印象を心に留める。浮島丸下北の会の斎藤作治さん(81)たちから、釜臥山の麓でも武器などを備蓄するトンネルを掘る作業をさせられたことを聞く。  そして飛行場跡、菊池桟橋跡などを次々と見て回る中、いまも残る二枚橋アーチ橋の大きさとアーチの曲線に圧倒され、「朝鮮人労働者の血と汗と涙が染み付いている。ぜひ残してほしい」と強く感じた。黙々とスケッチを重ねる余江さんの様子を、斎藤さんらは静かに見守った。  1978年完成した浮島丸殉難者追悼の碑の像づくりに、多くの学校教諭らが取り組んだが、この中に夫の勝彦さんとともに加わり初めて事件を知った。その後、同会会長を務める夫と一緒に追悼事業を担い、毎年8月24日の集会ではお茶の用意などで運営を支え、教員退職後は碑の立つ公園の草取りを欠かさない。目立たない裏方の役割を果たす姿は控えめながら、追悼への人一倍強い気持ちを募らせていた。  紙芝居を作るきっかけは、追悼集会はテレビ・新聞でも大きく取り上げられているが、舞鶴でもまだまだ事件を知らない人が多く、子供たちや手話サークルで知り合ったろうあ者たちにも、わかりやすく伝えたいと考えたことだった。  朝鮮人労働者たちの行動を追体験するため、下北へは列車で向かい、帰りは船を使って取材した。アーチ橋を描いている時には、重いセメントを担ぎ上げる労働者たちと一緒になって汗を流し、爆沈する船から海に投げ出された約200人を描いた場面では、自分も海の中に沈み叫びたくなるような気持ちで涙が溢れ、救助船が矢のように漕ぎ進むシーンは、一刻も早く助けたい気持ちになった。   韓国釜山の方角に視線を向ける碑に何度も向き合い、帰れなかった1人1人の想いに寄り添った。すると碑が語りかけてきた。「私たちの悲しみを無駄にしないで」。絵筆を握る手に力を与えてくれ、30枚の絵と文の紙芝居「うきしままるじけん」が昨年完成する。  「描き終わった後、数奇な運命をたどった浮島丸に対して、哀しく、愛おしく、何とも言えない想いでいっぱいになった」。上演活動がスタートした。

舞鶴での追悼事業年表
1954年4月 第1回浮島丸殉難者追悼慰霊祭
1978年8月 追悼の碑の除幕式と追悼集会
1989年8月 『浮島丸事件の記録』の本を出版
1995年5月 映画「エイジアン・ブルー」の舞鶴ロケ
1997年8月 青森を訪れ浮島丸下北の会と交流
1998年8月 事件を題材にしたりんご座の舞台公演とシンポジウム。下北の会からも参加
2004年8月 韓国光州市民が訪れ交流と伝統舞踊公演
2005年3月 追悼する会の須永安郎さんが中国北京大学で事件をテーマに講演
2005年8月 中国、韓国からパネラーを迎え東アジア国際シンポジウム