浮島丸事件 下北からの報告 ①北方警備のかなめ ~南下するロシアの津軽海峡への侵入を防ぐ~ 寒村から軍港へ、舞鶴と重なる【舞鶴】

浮島丸事件 下北からの報告 ①北方警備のかなめ ~南下するロシアの津軽海峡への侵入を防ぐ~ 寒村から軍港へ、舞鶴と重なる【舞鶴】

投稿日時:2011年9月2日

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写真左=下北と海軍の歴史を語ったむつ市の鳴海さん(左)
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写真右=昭和14年頃、風間浦村桑畑での大間鉄道建設現場(下北の地域文化研究所「アイゴーの海」より)

過酷な労働を強いられた朝鮮人たちを乗せた船「浮島丸」が出港した青森県下北半島むつと、船が爆沈し多くの犠牲者を出した舞鶴。この浮島丸事件を題材にした紙芝居を、舞鶴市民14人が8月、むつ市を訪れ上演した。なぜこの地に多くの朝鮮人がいたのか、そこで何があったのか、事件を語り継ぐ下北の人たちの思いとは。紙芝居を携え出発した「浮島丸殉難者を追悼する会」に同行し下北で取材した。  まさかりの形をした本州最北端の下北半島。毎年のように吹くヤマセ(偏東風)と言われる冷たい風によって、青森県の中でも冷害が最も多い厳しい北辺の地だ。ここに終戦時、大湊海軍の軍属・徴用工、鉄道建設の作業員などとして、朝鮮人労働者が約4000人いたと推定されている。下北が海軍の拠点となった経過を見てみよう。  下北の地は、江戸期に北海道の松前船や上方船が寄港する交通の要衝となった。その後、日清戦争に勝った日本は、南下するロシアの津軽海峡への侵入を防ぐため、1902(明治35)年に寒村の大湊に北方警備の要として水雷団を設置。05年に要港部へ格上げ、41年大湊海軍警備府へ改編した。警備府の置かれた大湊町(現むつ市)の当時の人口は約8万人、この内軍人は約6万人と圧倒的な数を占めた。  また、大湊町だけでなく下北半島全体が要塞地帯に指定され、津軽海峡を挟み大間と函館に陸軍の砲台を備え、海峡を通過するロシア艦隊を撃退しようとした。これら要塞に物資などを運ぶため、国鉄軍港線の大間鉄道が下北に、函館には戸井鉄道の建設が進められ、「兄弟線」と呼ばれた。  北前船の寄港地の歴史、寒村から軍港への変遷、軍事鉄道の敷設、徴用や学徒動員という名の強制的な労働、特攻艇「震洋(しんよう)」の製造、巡洋艦などが狙われ約130人の犠牲者が出た大湊空襲と模擬原爆が投下された舞鶴空襲、戦後は海上自衛隊地方隊へ。  下北の郷土史家で、浮島丸事件の調査に40年以上取り組む鳴海健太郎さん(80)=むつ市=から湧き出るような説明を聞き、浮島丸だけではない下北と舞鶴との共通点が多く浮かび上がる。戦争は地域を軍事拠点へと変貌させ、そこに暮らす人々に深い爪跡と計り知れない影響を与え、形成された社会構造がいまも残っていることを二つの地域の歴史が示している。  鳴海さんはもう1つの共通点を今度は楽しそうに口にした。水上勉の小説で映画化された「飢餓海峡」。戦後の混乱期を背景に、下北と舞鶴を舞台にしている。「今夜は『飢餓海峡』のことでも多いに語りましょう」。無尽蔵の知識と歴史が詰まる図書館のような存在だ。  浮島丸事件 朝鮮人労働者と家族を朝鮮半島に帰国させるため、海軍特設輸送艦「浮島丸」(4730トン)が1945年8月22日、青森県大湊港を出港。釜山に向かう途中で針路を変えて舞鶴湾に入港し下佐波賀沖で謎の爆発・沈没をし、朝鮮人524人、日本人乗組員25人が亡くなった。