吉原地区 地域の歴史、法要で振り返る 疫病、弾薬処理、海難犠牲者らを供養 住民や漁業関係者らが参列 【舞鶴】

吉原地区 地域の歴史、法要で振り返る 疫病、弾薬処理、海難犠牲者らを供養 住民や漁業関係者らが参列 【舞鶴】

投稿日時:2010年9月28日

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 江戸期に吉原地区で発生した疫病で亡くなった先祖と、終戦直後の弾薬投棄作業や海難事故で亡くなった人たちを供養する法要が9月23日、下安久の府漁業協同組合舞鶴支所作業倉庫で営まれた。地域の住民や漁業関係者たちが参列し、静かに手を合わせた。また、疫病の犠牲者を悼む石碑に献花するとともに、地域の歴史をあらためて振り返っていた。  1727(享保12)年に田辺城下の大火で、漁民たちが現在の地に移ってきたのが吉原のはじまりとされる。古老の言い伝えによると、当時は湿地帯だったため疫病が流行し、子供たちを中心に多くの住民が亡くなり、匂ヶ崎付近で荼毘にふされたという。  それを裏付けるように、1991年12月、匂ヶ崎公園近くの崖下で土に覆われた四角柱の石碑が見つかった。正面には「南無阿弥陀仏」、側面には1746年にあたる「延亨三丙寅年八月二十九日」「見海寺十世・諦譽順超」などの文字が刻まれていた。犠牲者たちの供養のため石碑を建立したものとみられる。  地元の住民たちが翌年の92年、石碑を元通りに再建したのに合わせ、海で亡くなった地域の人たちをも一緒に追悼する法要を営んだ。旧日本軍の大量の武器弾薬を米軍の指揮下で処分するため、終戦直後の45年11月13日、宇治火薬製造所などから運ばれた弾薬類を和田沖の海域で投棄作業をしていたところ、大爆発が起き、艀(はしけ)と曳船が木っ端みじんとなって沈没し、吉原から手伝いにきていた人を含む33人が死亡した。  また、出漁して操業中に亡くなった地元の漁業者もいる。55年3月には「三光丸」が、91年12月に「方運丸」の漁船がともに丹後沖で遭難し乗組員らが亡くなっている。  この日はあいにくの雨のため、石碑前から倉庫に会場を移し祭壇が設けられ、同寺の中島知之住職の読経の中、法要実行委員会を組織する町内会役員や水産関係者、吉原婦人会らのメンバーが焼香した。  世話人の増山寛一さん(81)は「疫病や海の事故で多くの人が亡くなったことを知らない地元の若い人も増えてきました。法要を続けることで地域の歴史を伝えていければ」と話す。
写真左=再建された石碑(中央)に献花する関係者
写真右=祭壇へ手を合わせる参加者