シリーズ・語り伝えるヒロシマ④ 被爆者の証言よぎる 溶鉱炉に投げ込まれた街 遺骨と瓦礫の上に復興【舞鶴】

シリーズ・語り伝えるヒロシマ④ 被爆者の証言よぎる 溶鉱炉に投げ込まれた街 遺骨と瓦礫の上に復興【舞鶴】

投稿日時:2013年8月27日

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 山田さんと式典前日に入った広島市の平和記念公園を歩いた。たくさんの子供たちのグループが、平和学習で訪れているのが目につく。おびただしい遺骨と瓦礫の上に復興した街を、夏の太陽がじりじりと照りつける。あの日は日差しの暑さよりも、地上の熱気が上回った。
 広島上空580メートルで爆発した原爆。半径約15メートルの火球の表面温度は30万度、1秒後に火球は膨張し1万2千度になった。太陽の表面温度は6千度。まちのすぐ上に太陽が2つ並んだようなものだ。爆心地付近は3千~4千度に熱せられ、真下にあった島病院は多くの患者が消え、いくつかの骨片が残されただけだったという。
 そして音の2倍の速さである秒速350メートル、畳1枚あたり10トンの圧力の爆風が地上のものを一気に吹き飛ばし、その後に起きた炎がまちをなめ尽くした。眼に見えない放射線の急性期症状で多くの人の命が奪われ、いまだに人体に影響を及ぼしている。当時広島市の人口35万人前後の内、死没者は1945年末までに13~15万人にのぼった。
 まちが溶鉱炉の中に投げ込まれたかのようになり、まわりは黒い瓦礫ばかり。そして人は焼け焦げた魚のようになり、その群れがうごめいていた。黒くただれた遺体、皮膚がずるりとむけ垂れ下がってさまよう姿は、もはや人間の姿ではなかったと多くの被爆者が伝える。
 頭のない赤ん坊を背負ったままただ黙々と歩く母親、何度も空缶に水をくみ、すでに息絶えた母親の口元に流し込む3~4歳の男の子、溶けたアスファルトが裸足に下駄のように張り付いたまま歩く人、自分より大きな体の瀕死の息子をおぶる老母。いくつもの証言が頭をよぎる。
 広島文理科大などで勤務した小倉豊文さんは、灼熱地獄の噴火口の底に下り立ったようだ、と手記「ヒロシマ―絶後の記録」に綴った。原爆で妻を亡くしたが、残された3人の子供たちと一緒に見送った。宮澤賢治が大好きだった妻を想い、「雨ニモマケズ」を合唱して、賢治葬とした。
 68年前、野辺の送りをする無数の白い煙が、広島の夏空に向かって昇った。祈らずにはおられない。(青木信明)

写真=ヒロシマの体験を学ぼうと訪れた子供たち(8月5日、平和公園)