シリーズ・語り伝えるヒロシマ① 原爆の日、毎年広島へ 山田達磨さん 父亡くし8歳で被爆【舞鶴】

シリーズ・語り伝えるヒロシマ① 原爆の日、毎年広島へ 山田達磨さん 父亡くし8歳で被爆【舞鶴】

投稿日時:2013年8月16日

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 模擬原爆の爆弾の標的となった舞鶴から、原爆が投下された広島へ、毎年8月6日、平和記念式典に参列している人がいる。山田達磨さん(77)=愛宕中町。原爆で父を亡くし、自らも被爆した。その体験に耳を傾け、今年68回目の原爆の日、広島に同行した。(青木信明)
 1年前の8月末、市役所1階ロビー。掲示板をじっと見つめる山田さんがいた。掲示されていたのは原爆供養塔納骨名簿だった。供養塔は広島市の平和記念公園にあり、身元の分からない遺骨などが納められている。その内、氏名が判明しても遺族がわからない遺骨の氏名が名簿に記されている。
 「知っている人の名前がないか捜している」。さらに聞くと自身も被爆者であり、毎年式典に参列していると教えてくれた。山田さんとは日星高校の教頭時代に知り合い、中国内モンゴルでの植林活動など多くのボランティア活動を通じて何度も話を聞いてきたが、被爆者であることを初めて知った。
 父の貞之助さんは綾部出身。仕事の関係で広島市に移り、4人の子供がここで生まれた。中心街にあった広島文理科大学(いまの広島大)でガラスの実験器具を製作する技官として働き、自宅は大学近くの中区宝町にあった。1945(昭和20)年春ごろ、一家は父だけが自宅に残ることを決め、市内から北へ少し離れた安佐郡戸山村(いまの安佐南区)へ自主的に疎開した。山田さんは国民小学校4年生の8歳だった。
 父は腕のいい技術者として知られ、舞鶴鎮守府長官も務めた東郷平八郎の遺髪を納めるガラス容器の製作依頼もあった。週末に職場から自転車で疎開先に行き、家族で過ごす日が続く。大学の畑で作った野菜などを土産にする父、一家が揃っての夕御飯を母と子供たちも朝から楽しみにしていた。
 ある土曜日の夜。もう父はこないのだろうと思っていると、ひょっこり姿を見せた。仕事が遅くなり行かないつもりだったが、配給された酒を飲みその勢いで来た。途中、バスをよけようとして自転車がひっくり返り崖へ落ち、片方の靴をなくしてしまった。翌朝見つかった靴を見るとぼろ靴。母は「チャップリンが映画でいつもはいているような靴」とみなで大笑いしたこともあった。  世界を一変させた8月6日が近づいていた。

写真=原爆投下の8時15分に合わせ、黙祷する山田さん(8月6日、広島市で)